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鎮魂花





 何がそんなに気に入らなかったのか、一体どこで間違えたのか、妙(タエ)はもう、考えることをやめた。
 その結果が例え、破滅しか呼ばなくても。
 ただ、大切にしている宝さえあれば、生きていけると思っていた。
 世界は常に歪んでいても。
 付きまとう狂気に侵され続けても。
 ただ、冴だけ傍に在れば、十分だと。
 それなのに……

「どうして? 冴……貴女も、私を裏切るの」

 張り詰めていた糸が、プツンと切れた瞬間だった。
 何がどう拗れてその結論に至ったのか、忘れてしまうほど。ただ、切欠は些細なことだった。一瞬の拒絶が、全ての引き金。それが許せなくて、哀しくて。
 無意識に、握り締めていた。

「お母、さん?」

 怯える娘の瞳を見た瞬間、頭の中が完全にショートした。真っ白になった思考は、ただ少女に近づくことだけを求め、身体を衝き動かす。
 煌く光を手にし、鋭い凶器をちらつかせ、妙は徐々に距離を詰めた。逃げ場所を失った少女は、壁に背をつけ溢れる涙を拭うこともせずにただ首を振る。
 やめてと、掠れた悲鳴を上げながら。
「ご、ごめんなさ……ごめんなさいッ!」
 手に持っているナイフにすら気づかずに、妙はその手を冴に向かって振り仰ぐ。少女は絶叫した。
 振り下ろされた腕。
 冴はその閃光から逃れようと身体をよじる。だが、完全によけることができず走った痛みに呻いた。
 激痛を知らせる腹部に、そっと手を乗せる。恐る恐るその手を見ると、意識を遠のかせるほど鮮やかな赤い液体がべっとりとついていた。血の気が引く。
「お、お母さん……」
「ダメよ。悪い子は、お仕置きしないと」
 謝っても、許さない。
 裏切ったその罪は、何よりも重いのだから。妙はこの場に相応しくない笑みを浮かべ、再び腕を振り上げる。
 冴の瞳孔が開いていく。絶望の色を浮かべた娘の瞳を見ても、彼女はまるで反応しなかった。
 壊れた心は、もはや思考すらも侵食していく。
 何も感じとることのできない、空っぽな人形と同じ。
 母の狂気に、少女はその場をかけた。逃げなければ、殺される。それを悟ったのだろう。
 痛みを堪えながら、走った。
 振り下ろしたナイフから逃げた娘の姿を視線で追い、妙は刃を引き抜くと地面に転々と残る血痕にニタリと笑みを浮かべた。
 逃げられはしない。どこまでも追いかけて、後悔させてやる。
 自分を裏切ったこと。
 許さない。
 冴も、あの男も。
 自分というものが在りながら、他の女に現を抜かしたあの男を、妙は一生許すことはない。
 憎んで恨んで、それでも愛していた。
 他の女に渡すくらいなら、永遠に自分のものにしよう。
 気がつけば、夫は床にうつぶせ動かなくなっていた。

―――――ほら、もう貴方はどこへも行かない……

 ずっと、自分と一緒なのだと、妙はその時涙しながら歓喜した。
 だから、冴も同じように自分のものにしなければ。
 連れ戻されなければ。

「貴女は私だけの為に在ればいいのよ、冴」

 誰にも渡しはしない。可愛い、可愛い娘。
 妙は転々と示す血痕の後を辿って、冴を追いかけた。どこへ行こうが、無駄。
 だって冴は、足跡を残しているのだから。

「……ふふっ。やっと足を止めてくれたわね」

 ほら、見つけた。妙は無くしてしまった玩具を見つけたときのように目を輝かせ、ニタリと笑みを刻む。冴が振り向くのを確認すると、持っていたナイフをぺろりと舐めた。口元が赤く染まる。
 それは、さっき腹部を刺した冴の血だ。今の彼女にとって、最高のご馳走。
「苦しいでしょう? まってて、今楽にしてあげるから」
 これで、一つになれる。ずっと、一緒。
 妙は恋焦がれるように、一歩一歩近づく。それにあわせるように、少女も少しずつ後退していた。
「そんなに怖がらないで。大丈夫。一気に殺してあげるから」
 もうどこへも、逃がさない。
「っ……やめ……」
 掠れた悲鳴を上げる娘に、妙は思わず至幸の笑みを浮かべる。
 恐怖は、呪縛の形。永遠に妙を忘れることなく、恐怖と呪縛で絡め取られた冴には、永遠に彼女の傍を離れることを許されない。
「冴が悪いのよ? わたしの言うことを聞かないから……」
 だから、こんなことをしなくちゃいけない。そうしなければ、また悪いことをしてしまうから。
「だから、処分しなくちゃね」
 また裏切られる前に。
 動けなくして、自分だけのものに。
「バイバイ、冴」
 鋭い眼光を煌かせ、幸福の瞬間を夢見て妙は凶器を振り下ろした。
 娘の絶叫が木霊する。
 冴の身体を貫いたナイフを引き抜き、正気を失った瞳が一瞬色を取り戻す。持っていたナイフが手から滑り落ちた。

「……さ、え?」

 声が震えている。
「ねぇ、冴? これで、貴女はもうどこへもいけないね。ずっと、私と……」
 一緒にいられるわけがない。
 だって、もう冴はここにはいないのだから。
「あは……」
 わけも解らず笑みが漏れる。止まらない。
「あははははははははっッ! ふふっ、ははは!!」
 月が霞む。地上に影を落とす。
 壊れた 壊れた。
 全部。
 冴を、娘を永遠にしたはずなのに。夫と同じように。自分だけのものにしたはずなのに。
 この喪失感は何なのか。
 軋み、悲鳴を上げる心と頭。
 おかしい。オカシイ、オカシイ。
 思い、ふと転がっていたナイフに視線が堕ちた。妙は吸い寄せられるようにもう一度それを握り締める。

「一緒よ、ずっと。だって、貴方達を愛してるのは私しかいないものッ」

 これが正解なのだ。何もおかしくなんかない。
 おかしくなんかないのに。間違ってなんかないのに。
「あああぁぁァァっッ!!」
 軋む、音。
 怒涛のように押し寄せてくる何かに耐えられず、妙はその場をかけた。わけも解らず、無我夢中で。
「こんなに……こんなに愛してるのにいぃぃッ!」
 誰も自分を省みない。
 愛を返してくれない。
 夫も、娘も。
 だから、だから。
「殺すしかなかったんじゃない!」
 死という名の永遠を。共に在ることを望んだだけなのに。

「もう、いない……誰も、いなくなっちゃった」

 押し寄せたそれは、現実という名の記憶。今まで受け入れられなかった、人としての心。
 ずっと押し殺してきた、もの。
 本当はもう、解っていた現実。
 死が別れであることくらい。動かないのは、彼女の所へ帰って来たからじゃない。遠くへ行ってしまったからだということくらい、ちゃんと、知っていた。
 それでも、妙は耐えられなかったのだ。

 病んだ心は、人の心を押しつぶし、鬼を生み出した。

 そうしなければ、生きていけなかった。
「私は、どうすれば良かったの」
 狂うことでしか、この世界で生きていく術を知らなかった。それが精一杯の虚勢だった。
「眠ればいい」
 誰ともなく問いかけた疑問に、答えが返ってきた。妙は特に驚くでもなく、声を振り返る。
 霞んだ月の淡い光が、暗闇に佇む一人の青年の影を映し出す。漆黒を身に纏い、塗れた黒眼が真っ直ぐに妙を捉えていた。
「答えが欲しいんだろう。簡単なことだ、終わればいい」
 それは助言ではなく命令に近かった。青年は有無を言わせぬ口調で妙に近寄る。
「そうすれば、楽になる。違うか?」
 歪んだこの世界からも。報われない思いからも。非情な自分からも。
 苦しいことから、全部開放される。もう、狂わなくても済む。
 楽になれるのだ。
「そうすれば、あの人のところに行ける……?」
「ああ」
 そしてまた夢を見る。
 妙は言い聞かされた子どものように素直に青年の言葉を受け入れ、ナイフを喉もとに突きつけた。
「そう、これが答えなのね。これでやっと、貴方の所へいける。初めから、やり直しましょう。貴方と、私と、冴と……今度は、間違えずに」
 妙は躊躇いなく己の喉を突き刺した。開いた瞳孔が、霞から覗いた月を写す。
 どこで、どう間違えたのか。今となってはもう、考えることすら面倒だった。
 力の抜けた身体が、重力に引かれるようにゆっくりと傾いでいく。視界が徐々に暗くなっていく中で、妙は一筋の光を必死に眼で追った。
 そこに立つ人影を見つめ、手を伸ばす。
 もう、何も見えない。
「もういい。眠れ」
 伸ばした手は何もつかめなかったけれど。変わりに振ってきた言葉がまるで全てを許すとでもいうような、優しいものだったから。
 妙は眠るように、静かに瞳を閉じた。
 終わりを迎えた彼女を見下ろす青年は、ぱさりと、一輪の花を投げる。それを合図とするように、ポツリポツリと雨が大地を濡らし始めた。
 青年は、雨が目に沁みることも構わず、空を仰ぐ。
 雲に隠れてしまった月。
 霞んだ、月。
 地上に光を届けることができなくなったそれは、雲に隠れて眠る。
 雨の勢いが増した。

「……死を選択できることが、どれだけ幸せなことか」

 零れた言葉は、誰に向けるでもなく雨に解けた。
 命あるもの必ず終わりは来る。それは青年にも言えることだが、自らの手でそれを終わらせることはできない。
 だが人間は、いつでも終わりを下せる。ならばなぜもっと足掻こうとしないのか。
 その短い時間の中で疲れたという理由は、彼にとっては当て付けでしかなかった。
 青年は手向けの花を見つめ、そしてその瞳に僅かな後悔の色を宿す。

「一度も間違えず生きることなど、できはしない。誰にも……」

 静かに告げた言葉が、しかし彼女には届くことはなかった。



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