2/距離





「はい、啓ちゃんお茶」
「お、ありがと」
 氷の入った冷たい麦茶をテーブルの上に置き、声をかけられた啓先輩は返事を返すが、意識は手元に集中している。
 刺繍展覧会まで残り一週間。昨日で早くも一週間がすぎ、今日から追い込みである地獄の一週間がスタートした。
 一週間でおよそ半分は仕上がった。さすがに徹夜まではないが、毎日警備員さんが施錠に来る時間まで粘ってやっていた甲斐があったというものだ。
 あくまで共同作品だから、さすがに誰か一人に押し付けてもって帰らせるわけにはいかないので、三人でできる時間帯でここまでやりつめた。
「コーちゃんもどーぞ」
「ありがとう、ナオちゃん」
 同じくお茶を配って回るナオ。梢先輩の横にもお茶の注がれたグラスを置き、ニコリと笑顔を浮かべる。梢先輩はいったん手を止め、その悩殺スマイルで同じくニコリと返事を返すと、再び作業に戻った。
 畜生。どこまでいっても何やっても可愛いな、あの人は。
 なんていうかうちの部、美形が多すぎやしないか。あたしとしては滅茶苦茶目の保養できていいんだけどもね。
「……アタシ、買い物行ってくる。ちょうど今ので茶がきれちゃったからさ」
 は?
 何、それ新しい苛め? あたしの分のお茶なし? って言うかわざとだろお前、絶対わざとでしょ!?
「え、もうお茶きれてた? そっか、じゃぁ、頼むよ」
「おう、じゃ、行ってきまーす」
 手なんか振りながら早々と部屋を出て行ったナオ。あいつ、絶対逃げたな今。
 あたしは扉が閉められた瞬間、小さく吐息した。ナオとはあれから何だかんだで結局距離を置いている状態のまま、ぎこちない関係が続いている。
 いつもなら喧嘩した後も何事もなかったかのように部屋に乱入してくるのに、ここ数日間、それが全くない。食事もいつも一緒にとっていたのに、ナオは朝も晩もまるであたしを避けるように部屋へは来なかった。唯一朝、大学まで通うのに一緒に行くくらいだ。それも、私が部屋を出るまで玄関の前で待っている。いつもなら、必ず朝あたしを起こしに部屋に来るのに。
 だから、そんな風な態度をとられると、こっちとしてもどう声をかけたらいいのか解らない。何であいつがあたしを避け続けるのか理解しがたいが、いちいち考え込むのも面倒くさいし、今そんな余裕ないしで、その件については結局後回しになっている。
 ったく、これ以上手間のかかることさせないで欲しいわ。部活は好きなことだから別にいいけど、ナオの件については厄介事以外の何ものでもない。
 全く、誰かさんのせいで最近苛々することが多い。ストレスで胃に穴が開いたらどうしてくれる。
「……ちゃんっ……シアちゃん!」
「え、はい!?」
 自己世界に深くもぐっていたらしい。呼ばれていることに気づかず、肩を揺すられて始めて我に返った。
 顔を上げると、間近に啓先輩の顔がある。うわ、至近距離ヤバイよ。マジこの人格好いいよ。
「あ、あの……」
「シアちゃん」
 あたしの瞳を覗き込む先輩の顔が、さらに近づいてくる。真摯な表情を浮かべ、じっと見つめられるといくら女性とわかっていてもその顔じゃ心拍数は正常じゃいられない。
 っていうか、何でそんなに顔近づけてくるんですか!? と内心叫んだ瞬間、啓先輩はあたしの額に自分の額をくっつけてきた。
「ぅ、なんっ、え!?」
 思わず珍妙な言葉が口を伝う。
「……熱はないみたいだけど、顔色が悪いよ。大丈夫?」
「へ?」
「ここんとこ一日中缶詰で細かい作業してたからなぁ。慣れてないと疲れが出て体調崩すことがあるから」
「あの、えっと」
「少し休憩にしようか。一時間くらい外の空気すってきたらいいよ」
「え、でも」
「いいよ。今頑張っても途中で倒れられたらそれこそ困るし、この状況で一人でも欠けると正直大分きついからさ。それに、横でそんな顔されてたら、放っとけないよ」
「あ……」
 針仕事も意外と体力を使う。細かい作業で目を酷使するし、ずっと同じ体制で根詰めてやると肩や腰に結構な負担がかかる。
 そういうことを長時間続けていると、気分が悪くなったりすることもあるのだ。
 啓先輩はおそらく、それを心配してくれたんだろう。なるほど、ガラにもなく考え込んでいたから、その様を見て調子が悪いのだと勘違いしたんだ。
「言っておいで。少し気分を変えるだけでも違うもんだよ」
 気遣われ、あたしは顔が歪みそうになるのを堪えて頷く。こんなことで泣きそうになるなんて、自分がこんなにも弱っていたのだと気づいた。
「じゃぁ、お言葉に甘えてちょっとだけ休憩とってきます」
「うん、いってらっしゃい」
 あたしは部室を出る。そのまま壁に寄りかかり、俯いた。
 仕事に私情は挟むな。
 幼い頃からそう教え込まれてきたのに、今までこんな風になったことさえなかったのに、何だこの様は。
 今は部活で趣味の範囲だから許されるけど、これが仕事ならそうはいかない。
 なんなのもう。たかが数日、ナオとまともに話せなかったくらいで。
 何であたしがこんなにも悩まなくちゃいけないの。
 どうして振り回されなくちゃいけないのよ。
「シアちゃん?」
「! あ、こ、梢先輩……」
 咄嗟に顔を上げると、心配そうな表情を浮かべた梢先輩が佇んでいた。あたしの後を追うように部屋を出てきたのか、いつの間にか横に立っていた彼女に驚く。
「……ナオちゃんなら、まだ近くにいるはずよ?」
「え?」
 突然ナオの名前が出て、あたしは戸惑う。おまけに梢先輩の言いたいこともよく解らなくて、余計に。
「追いかけたら?」
「あ、いえ……」
「ナオちゃんと何かあったんでしょう? 何があったのかは知らないけれど、貴方達らしくないわ。特に、シアちゃんはらしくないわね」
「そんなこと……」
「いつもなら、何か問題が起こればそれを解決しないと気がすまないシアちゃんが、それを躊躇うのは、恐れているから?」
 問われ、あたしは咄嗟に俯く。
 違う。
「答えを聞くのが怖いんでしょう? もしかしたら、自分から離れて行ってしまうんじゃないかって」
 違うッ。
「失うのが怖いから。だから、逃げ続けているのよ」
「違いますッ! あたしは……っ」
 言いかけて、止まる。
 何が違うの。
 梢先輩の言ってることのどこが間違ってるの。

 本当はもう、気づいてるくせに

「解ってる、のに……あたし、卑怯ですよね」
 一人の部屋も、一人でとる食事も、一人で見るテレビも、何もかもが。
 こんなにも寂しいことだったなんて、知らなかった。
 だって、いつも隣にナオがいたから。一人じゃなかったから。
 あんなに面倒で、自己中で、破天荒で、手のかかる奴なんていなきゃ清々するだなんて思ってたのに、いつの間にかあいつが隣にいるのが当たり前になってて、理由も解らず離れていってしまうかも知れない今の状況に怯えているあたしがいる。
 だから、理由を聞くのが怖くて。
 特別じゃなくてもいい。でも、友達ですらなく拒絶されたらって思うと、怖くてできなかった。忙しいからと自分に理由をつけて、逃げ続けた。
 今まで散々あいつのこと拒んできたあたしが、自分が拒絶されるのを恐れるなんて、卑怯だ。
 結局、自分が傷つくのが厭で、あたしは口を噤んでいる。
「卑怯なんかじゃないわ」
 静かに響いた、声。
「恐れは、大切なものがあるから感じるものだもの。シアちゃんが今失いたくないものが大切な人だから、怖いと思うんでしょう。失った後のことを想像して、恐ろしいと感じているんでしょう? だから、それを感じて逃げたいと思うことは卑怯なことじゃないわ。誰にだってあるもの。誰にだってあることだもの。ただ、その恐怖とどう向き合うか、それが大事なのだと思うわ」
 どう、向き合うか……
「逃げ続けたいのなら、そうすればいい。ただし、状況は一生変わらないわ。前に進むことも、戻ることもできないまま、立ち止まったままでいいというのなら、このまま目を閉じ、耳をふさげばいい」
「……っ」
「でも、私は知っているわ。シアちゃんは、前に進む子だって」
 力強く言われ顔を上げると、柔らかく微笑む先輩の表情があった。それは陽だまりのように眩しく温かい。
 そうだ。あたしはいつだって、進むことを選んできた。時には後ろを振り返ることもある。でも、あたしは逃げることが嫌いだった。そんなことも、忘れてしまったのか。
「ありがとうございます、先輩」
 背中を押してくれて。
「あたし、行ってきます」
 先輩に笑みを返すと、あたしは一人の男の姿を探して駆け出した。


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