6/フェアウェル



 男は風を受けていた。
 高見の場所。
 下界を見下ろせるその場所で、彼はじっと好機を伺っている。
 失敗は、許されない。
 彼に、この次はない。
 男はギリリと奥歯を噛み締めた。
 この間の失態。完全に、彼は油断していた。
 けれど、と男はすぐに表情を和らげる。不敵な笑みを浮かべて。
 彼が枷を外したことで、羽根は体調を崩している。
 男は今だかつてないほどの開放感に酔いしれていた。
 その身にあるのは、白でも、黒でも、ましてや透明の魂でもない。
 この世にはありえない、曖昧に混ざり合った、穢れた血の色を連想させるような、濁った紅。
 意図的に創られた、彼は完璧な、紛い物だった……





 静寂が鬱陶しいほど、ここに音はない。
 消毒液の匂い。漂白されたシーツ。
 まあさが、倒れた。そんな気配など感じさせないほど元気そうにしていたのに、急にだ。慌てて保健室に連れてきたが、あいにく保健医がおらず、仕方なく独断でまあさをベッドに寝かせた。
 さっきまでナルもいたが、教師に報告しに教室へ戻ったままだ。
 ベッドに横になっているまあさは、薄っすらと汗をかいていた。うなされているのか、表情が苦しそうだ。
『まあさ……』
 俺はどうすればいいのか皆目検討もつかず、ただ黙って見守るしかない。
 今の俺では、治癒魔力だって使えない。本当に、無力だった。
「……イン」
 微かに漏れた息遣いに、俺はハッとして顔を上げる。
『まあさ?』
「どこ……ここ」
 どうやら意識を取り戻したらしいまあさが、ぼんやりとした表情を浮かべ、俺に尋ねる。
『保健室だ。倒れたの覚えてるか?』
「……誰が?」
『まあさが』
「あたし?」
 まるで他人事のように首を傾げて見せる。それから、まあさはゆっくりと上体を起こした。
「気持ち悪い……」
 かと思うと小さく呟き、徐に口を手で覆う。顔色が悪い。血の気が引いて、真っ青だった。
『どうしたんだよ。さっきまであんなに元気だったのに』
「解んない」
 頭をふるまあさ。その仕草が酷く弱々しく映る。いつもの様な覇気がなかった。
「ただ……誰かに見られてる感じがする」
『視線?』
「うん。殺気みたいな……」
 そういえば、まあさが倒れる前に、俺も妙な気配を感じ取った。すぐにまあさが倒れたからあまりそれを深く追求する暇がなかったが、確かにあの気配は妙だ。
『アイツ、かもな』
「アイツって、この間の悪魔モドキ?」
 俺の呟きを拾い、まあさが確認する。俺はそれに頷いた。考えられるのは、奴しかいない。
 けれど、あんなに妙な気配ではなかったはずだ。第一、奴が近づけば俺にはすぐに解る。
 釈然としない何かが引っかかった。
『でもアイツなら、俺はすぐに気づく。その視線を感じるようになったのはいつからだ? っていうか、何で今まで黙ってたんだよ?』
 以外だ。まあさが何も言わず黙っていたことが。何かあればすぐに愚痴るタイプだと思ってたんだけどな。
「だって……言ってもどうしようもないと思ったんだもん。変に気を使って欲しくないし、あたしの気のせいかもしれないじゃない?」
 まあさが真っ直ぐに俺を見上げた。俺はその視線を受け止めながら、複雑な心境にかられる。
『でもお前、それで倒れるくらいなんだから、気のせいってことはないだろ』
「それは、そうかもしれないけど」
 俺から視線を外し、俯く。俺はまあさの考えてることが分からず、苛立ちを覚えた。何で俺に気を使ってるんだ?
 いいたいことがあれば素直に言えばいいし、グダグダとあれこれ考えてしまうその思考が、俺には理解できない。人間ってやつは、ホントに回りくどいことが好きだよな。
 俺は嘆息する。
 けれどその瞬間。まるで待っていたかのようなタイミングで、突然、そんなに遠くない場所でガラスが砕け散る音が響いた。
「何っ?」
 まあさがビクリと身を竦ませる。近くで悲鳴が上がった。
 俺はまあさを庇うように身構え、辺りを警戒する。まただ。また、あの妙な気配がする。さっきよりも随分はっきりと感じ取れた。
 このどす黒いまでの、ずっしりと重く、威圧するような殺気。
『フェアウェルか?』
「フェアウェル?」
 まあさがオウム返しに尋ねる。未だ姿の見えない敵に警戒しながら、俺は後ろにいるまあさの気配を感じ取り、頷いた。
『この間の、お前のいうところの悪魔モドキの名前だ。フェアウェル・ラズライド』
「フェアウェル・ラズライド……そういえば、あの時ナインはそのフェアウェルって奴のこと正確には悪魔じゃないって、言ったよね? それであたしは悪魔モドキって勝手に決めちゃったんだけど。ホントは何なの?」
 まあさが俺の服の裾を引っ張る。俺は振り向かないまま、しばし返答に迷った。
 なんて答えたらいいのか。
『あいつは……』
 いいかけた俺の言葉は、地響きと共に蹴破られた扉の音によって、遮られてしまった。





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