]





 昔、バラの花を摘もうとして、手を切ったことがあった。
 その時、母がとても心配そうに手当をしてくれて……優しく手を取り、大事そうに手のひらを撫でてくれたあの感触が、あの幸福が、きっと、ずっと心の奥に焼き付いていたから。
 だから、少女は恨むことができなかった。
 嫌いになれなかった。
 だって、大好きだったのだ。
 その想いを伝えたら、母は、私もよ、と優しく微笑んでくれた。その笑みがとても綺麗で、少女はそれだけで幸せな気持ちになれた。
 だからこれは、きっと試練なのだ。
 きっと、自分が何か悪いことをしてしまったから、母が怒って、自分が反省するまで、こうやって一人でいることを課せられた。
 母の怒りが収まれば、きっとまた、あの頃のように笑ってくれる。
 優しく抱きしめてくれる。
「お母様……更は、いい子にします。だから……」
 それは祈るような願いだった。
 本当は心の奥底、無意識に解っていたのかもしれない。ただ、それを受け入れてしまったら、壊れてしまうことも解っていた。だから、気づかないふりをしていたのかもしれない。
 あるいは、気づきたくなかっただけなのか、今となっては解らなかった。
 一人は淋しいから……まだ、完全なる孤独ではないから。
 会える、会いたいという思いから、孤独に対しての恐怖が生まれる。


 一人にしないで……
 どうか、誰か……――――――




 どうしてこうなったのか、更は思考が追い付かず動けないでいた。
「久しぶりですね」
 立っていたのは、美しい、女性。
 突然開いた扉の向こうから姿を現した人物。それが誰か認めた瞬間、更の身体が無意識に震える。
 何年振りだろうか。何一つ変わらない存在が目の前に現れて、思考が停止する。
「言葉もないのですか? 久しぶりに会ったというのに」
「お母様……」
「……まだ私を母と呼ぶのですね。いい加減、理解できませんか? 私はお前の母ではないの」
 はっきりとした拒絶に、更は目の前が真っ暗になる。
「お前の存在が、ずっと私を苦しめる。いい加減、はっきりさせましょう? お前は私が憎いのでしょう? だから、凪に手を出した」
 最愛の名が出た瞬間、更はビクリと肩を揺らした。
 その動揺を、彼女が見逃すはずもない。彼女、麟が。
「あの人だけでは飽き足らず、私から凪までも奪って、楽しい?」
 つかつかと更に近づき、その美しい髪を掴んで遠慮なく引っ張った。
 痛みが走ったが、更は恐怖にひきつった表情以外、何も答えられない。
「私の凪に手を出して、まさかただで済むと思っているわけじゃないでしょうね?」
 その瞳が、狂気に燃えていた。
 笑っているのに、恐ろしい。あの時≠フ記憶が蘇る。震えでカチカチと歯が鳴った。
「ごめんなさ……」
 絞り出すような声。それも、掠れて頼りなく消えた。
「謝れば許すとでも? お前が言ったのよ? 一生かけて償うと。だから殺さないでと。それを、こんな形で裏切られるとはね」
 突き放すように髪を放し、麟は勢いよく更の顔を叩いた。パンッと乾いた音だけが響き渡る。
 叩かれた反動で、更の体がソファに崩れる。
「だけど、お前が私の言うとおりにするのであれば、許してあげましょう」
 その言葉の続きを聞いてはいけないと、警響が鳴った。更は顔を伏せたまま、目を瞑る。
「どうするのですか?」
「……どうすれば」
 氷のように冷たい問いに、けれど更はそれしか選択肢がないことを知っていた。彼女の返答に満足したように、麟は満面の笑みになる。

「自害なさい」

 音が、やんだ。
 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「どうしたの? さぁ、今ここで自害なさい。ほら、これを使えばいいわ」
 言いながら、差し出されたナイフ。それを更の足元に落とし、自分で拾えと言わんばかりに見下ろす麟の、その冷たい瞳に、これが冗談などではないことを悟る。
 無機質なまでに乾いた音をたてて床に転がったそれを、手に取ることができない。
 突きつけられた現実が、あまりにも非現実的過ぎて。
「おかあ、さま……」
 涙が勝手にこぼれてくる。なぜこんなにも哀しいのか。
 もう、かつての母はどこにもいないのだと突きつけられたようで。捨てられるというのは、こんなにもどうしようもない思いになるものなのか。
 伝える言葉が思い浮かばない。
 ただ、哀しい。
「恐ろしいの? 大丈夫よ、すぐに終わるわ。さぁ、そのナイフを取りなさい」
 笑っている。今から楽しいことでも始まるかのような、それ。更は母の表情を見て、自分の中で張りつめていた何かが切れる音を聞いた。
 死にたいと、思ったことはなかった。
 どんなに辛くても淋しくても、死にたいと思ったことも、死のうと思ったこともなかった。
 ただ、待ち続けた。いつか迎えに来てくれる。昔のように笑いあえる日が来ると信じて。その思いだけを胸に生きてきた。
 こんなことを望んでいたわけではないのに……
 更は冷たいナイフの柄を掴み、永遠に終わらないくらいの速度で持ち上げたそれを、凝視した。カタカタと震える手の中の物をこのまま自分の喉元に突き立てれば、終わる。
 何もかも。
 そうすれば、楽になれるのだろうか。
 だったら、この震えは何なのか。
 怖い。怖い。怖い。
 恐怖に引きつって、涙がとまらない。
「わたし……わたし、死にたく、ない」
 こんな終わり、嫌だ。
 更は懇願するように母を見つめる。涙でにじんで、よく見えないけれど。
「自分でできないのなら、仕方ありませんね」
 ふと、目の前に影が差す。麟が更の前に立ち、持っていたナイフを取り上げた。
「私が殺してあげましょう」
 振り上げられるナイフ。
 滲んだ視界の端で、閃光が走る。
 目を瞑る暇もなく、それは目の前に迫り、そして鼻先で止まった。
「馬鹿な真似はやめなさい、麟」
 寸でのところで止まったナイフの先に、麟の腕をつかむ大きな手があった。その先に、肩で息をしている閑の姿。そしてその奥に、凪の姿も。閑は片方の手で麟の手からナイフを奪い、遠くへ放る。カツン、と乾いた音が響いた。
「あなた……どうして?」
 突然現れた閑に、麟は柳眉を寄せた。ナイフを放った後、閑は麟の腕を離し凪に預けていた薬の袋を受け取って差し出した。
「使用人がお前を探していたよ。薬はちゃんと飲んでくれ」
「薬……?」
 麟の身体から力が抜ける。差し出された処方薬を見ることなく、項垂れる。
「ああ、そう、薬……」
「麟?」
「こんな状況を見ても、あなたはまだ私に生き永らえろと言うの?」
 狂気に満ちた顔。歪んだ表情はまっすぐに閑を射抜く。
「あの女を殺したときだってあなたは私に何も言わなかった! 凪の時だってそう! 今だってまたなかったことにするつもり!? あなたはどこまで私を苦しめれば気が済むの!?」
「落ち着きなさい、そんなに興奮したら発作が」
「話をそらさないで!! そんなにこの子がいいなら……望み通りあなたの大事なものを奪ってあげる!!」
「麟!?」
 閑に掴みかかっていた麟は、勢いよく彼を突き飛ばし、踵を返して更の腕をつかんだ。そのまま少女を組み敷き、首を絞める。
「がっ……!」
「麟! やめなさい!」
「更!」
「近づかないで! 近づいたら本当にこの首へし折るわよ?」
 正気ではない瞳。焦点が合わない。麟は自棄を起こし、更の首を絞めたまま二人を牽制した。
「やめてくれ、麟。更は関係ないだろう? これは君と私の問題だ」
「……関係ない? 何を言っているの? この子が全ての元凶じゃない」
 締めていた掌に力がこもる。更は苦しそうにもがいた。
「それは更が望んだことじゃないだろう。その子もまた被害者だ」
「そうね……何も知らずに生きてきた、可哀想な子。私は、母にもなれず、なりきれず、お前を愛することもできない。許すことも、憎むこともできないなら、壊すしかないじゃない!」
 意識も薄い中、降ってくる独白。
 視界がぼやけて、麟の顔は見えない。更は懸命にもがいた。苦しくて苦しくて。
 それでも死にたくなくて、あらゆる力を振り絞って、もがいた。
「〜〜〜〜〜っ!!」
 無我夢中で振った腕が、麟の顔を掠めた。その拍子に腕の力が緩み、更は力の限りのしかかる目の前の影を押し倒した。
「!!」
 どんっと音を立てて麟の身体が壁に打ち付けられる。
 力任せに振りほどいた更の腕が、麟を壁に押し倒したのだ。
「麟!」
「更!」
 閑と凪がそれぞれに駆け寄る。
「げほっ、げほっ……」
「更、大丈夫か!?」
 優しく抱き起し、凪は更の肩を抱く。ぼやけた視界で、更は声の主を必死に探した。
 苦しくて声が出ない。
「麟、麟!」
 遠くで、閑が叫ぶ声が聞こえる。その声で、更は我に返った。ぼやけていた視界が徐々に晴れると、母の姿を捉える。
「ごほっ……は、はぁ……」
 視線の先に蹲る麟の姿。肩で息をしている彼女の顔からは、血の気が引いている。
「しっかりしなさい、麟! 今薬を」
「か、さま?」
 どうやら発作を起こしているらしかった。先ほどからの興奮のせいなのか、それとも薬が切れたからなのか、はたまた更が与えた衝撃のせいなのか。答えは誰にも分らなかった。
「薬を飲みなさい! 麟!」
 抱きかかえる閑の表情が崩れる。珍しく取り乱したその姿に、更は心臓が握りつぶされるような苦しさを感じた。
「あなた……」
 差し出された薬を拒みながら、麟がか細い声で閑を呼ぶ。
「なんだ?」
「ごめ、なさ……」
「なにを……」
「あな、たを……信じ、れ……なかった、わ、たしを……許さ、な、で」
 息も絶え絶えに、絞り出した言葉。閑の頬に触れたその手が、冷たい。
 その言葉を聞いた途端、閑は目を見開いた。
「君は、知っていたのか?」
 更が誰の娘かを、麟は知っていた。
 いや、正しくは途中で知ったのだろう。始めはおそらく本当に閑を疑ったのだ。
「許、される、度……くる、し、くて」
 苦しくて苦しくて。何をしても、何を言っても、自分を許す閑。優しくされるたびに、罪悪感だけが募った。
 自分で壊しておいて、自分で狂わせておいて、今更どうやってやり直せるというのか。
 何も知らず閑を疑い、事実を知ってどれほど自身を呪ったことだろう。
 なぜ、信じられなかったのか。
 なぜ……
 これだけ彼の人生を踏みにじっておいて、自分が許される道理なんて、ない。
(だからどうか、私を許さないで……)
 頬に触れていた掌が、ゆっくりと落ちていく。
「麟!」
 閑はその手を掴み、再び自身の頬にあてた。その、冷たく動かない掌を。
「最後まで勝手だな、君は……」
 閑の表情は見えない。泣いているようにもみえるし、笑っているようにも見える。
 事情を知ってしまった凪は、そんな二人を見るのが痛まれず、顔を伏せた。
「お母様?」
「更……」
「お母様は、どうなさったの? ねぇ、凪? どうして……」
 動かない母。一人状況が理解できていない更。
「どうして動かないの?」
「更、母様はもう……」
「嘘よ……嘘よぉ! お母様! お母さまぁぁぁ!!!!!」
 麟は最後まで、更を見なかった。
 どれだけ否定されても、現に今殺されそうになっても、更はやっぱり母を憎むことができなかった。あの優しい微笑みが、その記憶だけが、脳裏に焼き付いて離れない。
 ただ、もう一度笑ってほしかった。ただそれだけなのに……
 更の悲鳴にも似た嗚咽だけが、部屋にこだまする。
 凪は子どものように泣きじゃくる更を抱きしめたまま、その場に縫い留められたかのように動けないでいた。






BACK   TOP   NEXT