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 母の使用人が訪ねてきた時から、嫌な予感はしていた。
 多くを語らぬその男は、ただ一言だけ麟が呼んでいると告げた。用件を問いただしても、それに応える様子はない。
 正直、行きたくなかった。ずっと頭の中で鳴る警鐘。
「凪様。お早くお願いします」
 目の前の男は凪が麟の部屋へ向かうまで動く気はないらしい。傍らに立ち尽くし、表情無く告げる。
 凪は小さく吐息し、仕方なく腰を上げた。
 母の部屋を訪れると、ピンと張りつめた空気に嫌な汗が伝う。
「待っていましたよ、凪」
 ベッドに腰かけ、青白い顔をした麟が凪を見ていた。今まで見たこともないような穏やかな表情で、微笑んでいる。
「こちらへいらっしゃい」
「母様、ご用件は……」
「いいから来なさい!!」
 入り口で視線を合わせず問いかけた言葉を遮られ、凪は咄嗟に肩を揺らした。先ほどまでの笑みが消えている。
 いよいよ嫌な勘というものが当たったらしい。
 冷たい汗が全身を這うのが分かった。
「聞こえなかったの? 早く近くへ」
 あまりの強張りに動けないでいると、焚き付けるように麟が語尾を強くした。凪は震える足を心の中で叱責しながら麟の元へ進む。
 ちりっと、触れる空気が痛い。
「今日はあなたとゆっくり話がしたくて呼んだのです。最近……変わったことがあったのではなくて?」
 ああ、と凪は血の気が引くのを感じていた。
―――――すべてを知っている。
 逃げられない、と凪は拳を握り締めた。
「……変わったこと、ですか?」
「はっきり言わなければ解りませんか? 前に言いましたね? 私を裏切らないで、と」
「裏切っているつもりはありません。ただ私は……――――――っ」
 更とのことを弁明したい一心だったが、母の瞳を見た瞬間言葉を失った。
 なんて、冷たい目。
「ただ、何なのです? あの女のことを愛しているとでも言うのですか? 私に向かって? その口で?」
 母の言いつけを破ったことは確かに責められることかもしれない。けれど、こんなにも怒りを買うことなのだろうか、更と心を通わせることが。一人の女性と思いあうことが、こんなにも許されないことなのか。
「私は貴女の何なのですか? 都合のいい人形、ですか?」
 お気に入りのお人形。飽きたら無残に捨てられる。いつでも切り捨てられる。
 そんな存在。
 麟は凪の言葉に傷ついたように表情を崩し、静かに俯く。俯いたその瞳が、今何を映しているのか凪にはわからなかったが、その小さな存在があまりにも脆く、今にも手折られるのではないかと錯覚した。
 簡単に摘み取れる花のような……
「……むしろ、人形なのは私の方かもしれませんね」
 ぽつりとこぼれた言葉は、けれど凪には聞き取れなかった。
「母様?」
「あなたはリラーゼ家の跡取り。私の大切な息子」
 顔を上げた麟と目が合う。
 自分は人形なのかと問うた息子の言葉を反芻するように、その答えを否定するように、落ち着いた、けれどしっかりとした口調で告げる。
 いつもの美しい、けれど冷たい笑みを浮かべ、麟は凪の手を取った。
「貴方の相手はしかるべき時に相応しい女性を私が選びます。あの女は亡霊も同じ。そんな者を凪が相手にする必要はありません」
「母様!」
「私の言うことを聞きなさい。もうこれ以上、あの女に関わらないと誓うなら、今回のことはなかったことにしてあげます」
 ぎゅっと握られた手が、痛い。立てた爪が皮膚を裂く感触に、凪は息を飲んだ。
 答えは一つしかない。
 是と言わなければ、更がどうなるかなど想像に容易い。
「私には、もう貴方しかいないの。貴方しか縋れるものがないのよ……お願い、私の可愛い凪でいてくれるわね?」
 更を守るために、更を諦めろというのか。そんな簡単に思いを諦められるなら、こんなに苦しんだりしない。
 こんな簡単に、答えを出せるわけがない。
 凪は何も言えなかった。是とも非とも。
「少し頭を冷やしなさい」
 滴っていた血が、いつの間にか収まっていた。傷口を隠す様に握り締め、凪は母が呼んだ使用人に連れられて部屋をでる。
 このまま大人しくしていれば、本当に母は更を許すのだろうか。
「凪様、暫くはこちらでお過ごしいただきますよう、麟さまからの指示でございます」
 使用人に案内された部屋は、外からしか鍵が開けられない檻のような部屋だ。ここに閉じ込められれば、身動きが取れなくなる。
「凪様。どうぞ中へ」
 本当に、これでいいのだろうか。
 自分がこの中でのうのうと過ごしている間に、麟が更に罰を与えることだってできる。
 なかったことに、というのは、どこまでを指している?
 凪は許すが、更は別かもしれない。
 はっきり聞いたわけでもないし、麟が何を考えているのかも、もはやわからなかった。
 凪は一歩後ずさる。後ろに控えていた使用人が、彼の両肩を掴んだ。
「あまり抵抗されますと、麟さまへの反抗とみなしご報告いたしますが、よろしいのですか?」
「!」
「さぁ、中へ」
 掴まれた両肩に力がこもる。抵抗すれば、更に危険が及ぶのはわかりきっている。わかりきっているのに、今ここで従っても不安がぬぐえないのは、それこそが答えだからなのではないか。
 母は更を許さない。
「離せっ!」
 凪は使用人の手を払いのける。更の所へ行かなくては。
「凪様!? 麟さまを裏切るのですか!?」
 振りほどいた凪の腕を使用人が掴む。凪はそれを払いのけようと身をよじる。
「何事だ?」
 そんな二人の攻防を止めたのは、凛とした紳士の声だった。
「何の騒ぎだ?」
「旦那様……」
 振り返った先に、父、閑が立っていた。
「父様……」
 柳眉を寄せた彼は、威嚇するように使用人を睨み付ける。
「見たところ息子に乱暴を働いているように見えたが?」
「決してそのようなことは。これは奥様からのご指示で……」
 委縮する使用人を前に、閑は小さく吐息する。
「この部屋に閉じ込めることが? ならばその指示は私が引き継ごう。凪のことは私が預かる。お前は持ち場に戻りなさい」
「しかし……」
「私に意見するか? お前が?」
 冷やかな視線に、使用人は肩をすくめた。
「申し訳ございません! すぐに持ち場に戻ります」
 逃げるようにこの場を去っていった使用人の足音が聞こえなくなるのを待って、閑は凪を振り返る。
「それで? これはどういう状況だ?」
 まさか父に庇われる日が来るとは夢にも思わなかった凪は、今の状況をうまく理解できずにいたが、閑の問いに我に返った。
 今置かれている状況を素直に告げるべきなのかと逡巡する。更とのことは、麟にはもちろん、閑にも隠し通してきたことだ。
 しかし、この状況を打破できるとすれば、閑以外にいないだろう。彼ならば最悪の事態だけは避けることができるかもしれない。
「……更と会っていたことが、母に知られてしまいました」
「更、だと? お前、今更と言ったか?」
 更の名が出た途端、閑の顔色が変わる。
「……そうか、やはりお前は気づいてあそこへ行ったのか」
「え?」
 父の思いがけない返答に、凪は柳眉を寄せる。それではまるで、【わざと】更に会うように仕向けたように聞こえる。そう思って、はたと気が付いた。
「まさか、ずっと、わざと?」
 凪に冷たい態度なのも、凪の前で麟の悪態をついていたのも、麟との仲の悪さを見せつけるように凪の前で喧嘩をしていたのも。
 そして、更の塔に入れるのだと気づかせるような捨て台詞を吐いたのも。
 凪の視線に、閑は苦笑してみせた。凪が気づいた通り、全ては閑が故意にしてきたことだった。
「お前が私に懐けば、麟が面白くないだろう? お前には絶対的な麟の味方でいてもらう必要があった」
 別に凪を本気で疎んでいたわけではなかった。ただ、そうしなければ目の前の青年は父とも仲良くなろうと必死に取り繕ったに違いない。
「だが、麟のあれが普通だと認識されるのも困るのでな。更に興味を持つように少々手引きはした。まさか、そういう仲になるとは誤算だったが」
「それは……」
「精々お前の片思いで終わるだろうと思っていたんだが、更が受け入れるとは……あの子には、お前の存在は伝えていたから」
 いいながら、こうなることは心のどこかでわかっていたよう気がする、と閑は思った。もしかしたら、ずっと願っていたのかもしれない。あの少女を連れ出してくれる者を。
 あの可哀想で哀れな、最愛の娘のことを。
「こうなった以上、お前には、全てを話すべきだな」
 そう言って浮かべた閑の表情は、覚悟を決めたような、吹っ切れたようなそれだった。
「先程少し触れた通り、戸籍上更はお前の姉になる」
 しばらくの沈黙を破り、閑が沈んだ声で語り始めた。
「あくまでも戸籍上の話だ。あの子は正当なリラーゼ家の血をひいている」
「それは……どういう?」
 母の異常さから察するに、閑が不義を犯しているのだと思っていた凪は、彼の言葉に混乱した。
 閑は婿養子だ。彼が不義を犯してできた娘が更ならば、リラーゼ家の血を引いているはずがない。
 予想通りの凪の反応に、閑は苦笑した。
「お前が考えているようなことは、私はしていない。不義を犯したのは私ではなく、あの子の本当の父親だ」
 それが誰なのか、もうわかるだろう? と顔を歪ませ、閑は重たい口を開く。
「更の本当の父親は、麟の父親……前リラーゼ家当主だよ。あの人は使用人と不義を犯し、子どもを産ませた。私が麟を裏切っているとすれば、その事実を隠し彼女に嘘をついたこと、だろうな」
 多すぎる情報に処理が追い付かない。凪は想像もしていなかった事実に言葉を失う。
 父親が一緒だということは、麟と更は腹違いの姉妹、ということになる。
 そしてその事実を知るものは、今となっては閑だけ。彼は必死にそれを隠し通してきた。
 他ならぬ麟のために。罪のない更のために。
「どうしても、本当のことを言えなかった。どうやって切り出せる? 自分の父親が手近の女に手を出し、孕ませたなどと……麟の立場はどうなる。ただでさえ、彼女は一族から腫れもののように扱われてきたというのに。これ以上、傷つけるなんてこと、私にはどうしてもできなかった」
 掌で顔を覆い、閑は頭を抱えた。
「だが、この私の甘さが、結果麟を傷つけ壊してしまった……どうすればよかったのか、今でもわからない。最初から全てを話していれば、こんなことにはならなかったのだろうか?」
 そうだったかもしれない、未来。
 今とは違う結末を思い、後悔する毎日。
 だがそれは、誰にもわからない。正解だったかどうかも、過ぎてしまった今となっては、もう確かめる術もないのだから。
「はじめはうまく行っていたのにな……麟も更をかわいがっていたし、更も麟になついていた。絵にかいたような理想の家族だったのに……」
 少しずつ歪んでいったのは、いつの頃からだっただろう。
 少しずつ少しずつずれていって、いつの間にか修正できなくっていた。
 閑は壁に背もたれ、遠くを見つめるように顔を上げた。遠い昔に思いを馳せるように。
 凪はそんな父を見て、掛ける言葉を見つけられずに言葉を飲み込む。
 ずっと一人で、全てのことを抱え込んできたのだ、彼は。
 幼心に、麟のことをもっと大事にすればいいのに、と思ったことがあった。そうすれば、彼女があんなふうになることもないのだと、勝手に腹を立てていた自分が確かにいた。
 けれど蓋を開けてみればどうだ。事実は残酷で、冷たいと思っていた養父が、実は一番人間じみた人だったのかもしれないと今更気づく。
 ずっと、麟を守り大切にしていた閑。彼の言動は全て、麟のことを思ってのことだった。
 その思いは虚しくも当の本人に届くことなく、むしろ疑心となって狂わせてしまった。
「これから、どうするのですか?」
 答えを求めるように、凪は静かに問うた。このタイミングで事実を告げられた意図が、読めない。
「お前は、更を頼む。私は、けじめをつけなくてはな」
「と―――――」
「旦那様!!」
 凪の言葉を遮った悲鳴に近い声。驚いて声のした方を振り返ると、血相を抱えて使用人が走り寄ってきていた。
「何事だ、騒々しい」
「も、もうしわけございません。ですが、奥様が……っ!」
「麟がどうした?」
「それが、お薬の時間なのにどこにもおられなくて! 心当たりのある場所は総出で探したのですが、どこにも姿がないのです。最近は発作が起きる回数も多くて、主治医が言うには、薬の時間が空き過ぎると命に係わることもあると」
 嫌な予感がする。それは閑も同じだったのだろう。
 互いに顔を見合わせ、頷いた。
「落ち着きなさい。心当たりがある。私たちはそこを当ってみるから、お前たちは仕事に戻りなさい」
「ほ、本当ですか!? それでしたら、これを」
 使用人は大事に抱きかかえていた処方薬の入った袋を閑に手渡すと、安堵したようにお辞儀をしてこの場を後にした。
「急いだほうがよさそうだな」
 受け取った袋の中身を見つめながら浮かべた閑の表情を見て、最悪の事態が起ころうとしているのだと、凪は拳を強く握りしめた。






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