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昔、父が言った。
「人は所詮、人を裏切るものだよ」
と。
その時私は、どうしてそんなことを言うのだろうと、哀しい思いをしたことだけ、はっきりと覚えている。
とても哀しくて、胸が締め付けられた。
だから訊かなければよかったことを、確かめなければよかったことを、聞いてしまったのだろうか。
「お父様も、誰かを裏切るの?」
私の問いに、父は僅かに目を見張る。
そして静かに、瞳を伏せた。
「すまない」
肯定とも否定ともとれる答えと共に、私を強く抱きしめた。
私はそれがなぜかとても哀しかった。
だから、問の答えが肯定なのだと理解する。
どうして……
震える背中に腕をまわし、静かに目を閉じた。
どうして……
「すまない。私のせいで、お前にこんな思いをさせて」
追い詰めているのが、自分であることがわかった。
この人を傷つけた。
そこでやっと、これは訊いてはいけないことだったのだと理解した―――――
月に一度の会合で告げられた内容を、更はもう一度思い返していた。
窓辺に座り、ぼんやりと風に当たりながら説明してくれた青年の言葉を反芻する。
ドーマという人形師の力。
魂を入れることによって人間と同じように変化してしまうという人形を作れる者。
その力のせいなのか、ドーマは不老長寿でもあり、ドールとなったものもまた、ドーマが生きている限り不変を生きる。
そんな夢物語みたいなことが実際ありえるのだろうか。ピンと来ない。
「でも、ドールになれば……」
人と変わらない身体。記憶だってそのままだし、すこし容姿が変わるくらいのことで特に不自由はなさそうだ。
ドールになれば、この動かない足をすてて自由を得ることもできる。
そう思うのに、更はどうしてもその気にはなれなかった。自然とため息が落ちる。
丁度その時、部屋の扉を叩く音が聞こえて視線をそっちに投げた。
「いい子にしていたかい? 私の可愛いお姫様」
音に続いて姿を見せた人物の顔を見て、更は嬉しそうに笑った。
「もう、いつまでも子ども扱いしないで、お父様」
「はは、それは失礼した」
頬にキスを落とし、通例の挨拶を交わすと、父と呼ばれた男は更の向かい側に腰を下ろした。
更がお父様と呼んだ人物こそ、この家の当主、閑(しずか)・リラーゼその人だった。麟の夫であり、凪の養父である。
「今日はお前にお土産があるんだ。たくさん買ってきたからな」
抱えていた包みを差し出しながら、嬉しそうに閑は娘を見つめた。
「こんなにたくさん……もう、お父様ったら」
包みの一つを解くと、服や帽子が姿を見せる。
「こっちのドレスは新作だぞ。アクセサリーもセットで買ってきたんだ。絶対に似合うと思って」
「ありがとう、お父様」
かつてこの家には、一人の娘がいた。
凪が引き取られる少し前。その娘は美しい母と優しい父に愛され、幸せな日々を過ごしていた。
娘と両親との間に血のつながりはなかったが、それでも理想の家族のように仲が良かった。
しかしそれが崩れるのに、そんなに時間はかからなかった。母が突然壊れたのだ。
娘を拒絶し、夫を恨み、そしてすべてを壊した。
幼い娘に手を掛け、その両足を奪い、この塔に閉じ込めて。
つまり、更と凪は戸籍上姉弟ということになる。全く血のつながりのない、義姉弟。
そのことを、更は知っている。おそらく凪も薄々は気づいているのだろう。
「更? どうかしたのか?」
黙り込んでしまった娘を心配そうにのぞき込む閑。この塔に閉じ込められた後も、父だけは頻繁に会いに来てくれた、唯一の味方。
凪が来るまで、更には父だけだった。父の存在だけが、唯一この世界にとどまっていられる理由だった。
「いいえ、どれから着ようか迷っていただけ。ところでお父様?」
「うん?」
「その、私にばかりこんなに買ってきていいの? 弟には……」
跡取りは凪だ。自分に構うよりも、凪に構った方がいいのでは。今では更の存在を知っている者の方が少ない。
「凪のことか? あれは麟が溺愛しているからな。私には懐いていないし」
明らかに嫌悪を浮かべた父に、どこか胸が痛む。
幸せだったあの日々が、崩れるのは早かった。
ただの家族ごっこだった。理想の家族ごっこ。だから、簡単に終わってしまった。
「やっぱり、会わせてはもらえないの?」
母が男の子を養子にしたという話は、ずいぶん昔に父から教えてもらって知っていた。
自分に弟ができたのだと喜んだのも束の間、更がその子に会うことは許されなかった。
麟の中では、更はすでに死んだ者として扱われている。
「更……会わせてやりたいんだが、そうすると麟がな」
また更に火の粉がかからないとも限らない。麟の凪へのそれは、異常だ。
「お母様は、やっぱり……」
まだ、自分を許してはくれないのか。認めてはくれないのか。
更は静かに目を伏せた。
「すまない、更。私のせいでお前にこんな思いをさせて」
娘を抱きしめる父の優しさが、突き刺さる。
あぁ、まただ、と更は思った。
また、訊いてはいけないことを訊いてしまったのだと。父を傷つけてしまったのだと。
更は唇を噛んだ。
「ごめんなさい、お父様。もう言わないから、そんな顔をしないで」
いつも自分勝手だから、父も母も傷つけてしまうのだろう。
更はうまく笑えない自分を隠すように、父を抱きしめ返した。
静かというより、張りつめた空気に身が縮みそうな感覚を覚え、使用人である男は言葉を飲み込んだ。
喉を鳴らすこともままならず、呼吸がうまくできない。
「……それは、事実なのですか?」
今しがたすべての報告をし終えた彼は、静かすぎる主の姿に酷く萎縮していた。頷く仕草も、どこか頼りない。
それを確かめると、主である麟・リラーゼはゆっくりと椅子から立ち上がった。
「そう……あの娘……あの魔女が」
ふふっと、笑う仕草が不気味でしかなかった。
麟は使用人を一瞥し、その顎をくいっと持ち上げた。
「ねぇ、知っていて? あの娘が何なのか」
唇が触れるくらい近い距離。美しいのに、その顔が恐ろしい。使用人は表情を崩さないでいるのがやっとだった。かすかに首を横に振る。
「あの娘の存在を知ったのはつい先日のことです……何があったかなど存じ上げません」
「そうよね、貴方がここへ来たのは事が起こった後だものね。知らなくて当然だわ。ああ、だったら教えてあげましょうか?」
吐息が肌をくすぐる。
本来なら男として高ぶる状況なのだろうが、そんな雰囲気は一ミリも漂うことなく、むしろこのまま食い殺されそうな殺気だけが使用人の身体を覆っていた。
少し力を入れれば簡単に折れそうな細い首や身体なのに。それでも目の前の主が、恐ろしい。
「ふふ、私が恐ろしいの? 可愛い子ね。食べちゃいたいくらい」
「麟さま……」
使用人が慄く。本能が小柄な女主人を拒んでいる。
「冗談よ。今は早急にやらなくてはいけないことがあるものね。凪をここへ呼びなさい」
スッと笑みが消えた。
「……かしこまりました」
使用人は答えると同時に頭を下げ、部屋を出ていく。それを見送りながら、麟は奥歯をかみしめた。
「ふっ……ふふっ、あははははっ!!!」
机の上にあった燭台を掴み投げつける。狂気に満ちた麟の顔からは血の気が引いていた。
「どうやっても、お前は私の中から消えてくれないのね……まだ足りないの? 私の全てを奪っておいて、また奪うというの? あの人だけじゃなく、凪までも!!」
掌で顔を覆い、その場にしゃがみ込む。
悲痛は鋭い槍のような怨念へと形を変え、自身に突き刺さる。全てを壊した。自分の手で。
幸せだったあの頃も、誰を疑うことなく信じていた自分も。
たった一つ抱いてしまった疑心から、麟はその『楽園』を手放した。信じぬく強い意志を持てなかった弱さから、彼女は自身の中で燻る何かを鎮火させることができずに、燃え上がらせてしまった。燃え上がらせた後残ったものは、知らなかければよかった事実だけ。今もずっと、頭の中で何かが囁く。
―――――許すな
許すな、と。
自分が最初に壊して、裏切って、傷つけた。
やり直すこともできないくらいに壊して、踏みにじって、狂わせた。
「もう、何も残らない……」
麟は胸を押さえながらベッドの上に腰かけた。先ほどからじわじわと強くなる胸の痛み。生まれつき心臓の弱い彼女は、軽い運動すらも満足にできない身体だった。少し無理をすればすぐに発作が起きる。
少し、興奮しすぎたらしい。
発作が起こる前触れ。いつものことだけど、と麟は顔を歪めながら笑った。
(どうせ私はもうすぐ死ぬの)
最初に宣告を受けたのは五歳の時だった。十歳までは生きられないと。その次は十五歳。その次は二十歳。そうやってもうすぐ四十になろうとしている。
周りの一族にとって、麟はただ面倒くさいだけの器だった。一族の正当な血を受け継いだだけの、何もできない傀儡。
それでも麟は、一族の上に立つ者として随分長いこと責務をこなしてきた。重圧と重責と誹謗を受けながら。一族の衰退という重大な問題を抱え、改善に努めた年数を振り返るのも馬鹿らしい。
この衰退は収まりはしない。それを悟った時、麟はふと気が付いたのだ。
どうせ壊れるのなら、壊してしまえばいい、と。
今まで自分が蔑まれながら耐えてきたものは何だったのか……それでも耐えて耐えて、耐えてこられたのは閑がいたからだった。閑と更がいたからだった。
愛していた。血のつながりはなくとも、麟は二人を愛していた。
「これが私の役目なのでしょうね……何も、残らないの。残せなかった……」
手を伸ばした先には、何もない。
掴めるものなんて、何もなかった。
戻ることもやり直すこともできず、ただ静かに壊れていくだけ……