T





 人を人形に変えてしまう者達がいる
 醜く生に縋る人間を弄ぶがの如く……―――――


 彼女の足は逃げるためにある。
 まだ走れる。
 走れなくなったら、それは彼女が消える時。
 だから少女は、走り続ける。

「はぁ……はぁ、は……ぁ……っ」

 息を切らせ、顔を歪ませながら、それでも少女は懸命に駆け抜ける。
 すでに少女はパニック状態に陥っていた。
 腹部を押さえ、ひたすらに走る姿は、狂気にすら見える。
 彼女は今、生きるために逃げている。
 死にたくなかった。
 彼女は何より死を恐れていた。拒絶以上に。

「はぁ……や……死にたく、ない……死にたくないよぉっ……!」

 叫び終わると同時に、彼女は一部突起した地面に足を取られ、横転した。
 鬼ごっこは、終わった。
 彼女は鬼に捕まる。そして迎えるのは……



 ――――死



 少女は恐怖で顔を引きつらせた。
 カツンと靴底の鳴る音が後ろで響く。少女は瞬時に固まった。

「……ふふっ。やっと足を止めてくれたわね」

 とろんとした声音に、少女は背筋を凍らせる。
 ぎこちない動きで振り返ると、そこには狂喜するような顔があった。手には刃物を構え、破顔する女。
 若くも歳でもない、中途半端な年齢。
 女は持っていたナイフをぺろりと舐めた。口元が赤く染まる。
 その血は、その女のものではなく、少女のものだ。

「苦しいでしょう? まってて、今楽にしてあげるから」

 満面の笑みを零し、女は一歩一歩近づいてくる。それにあわせるように、少女も少しずつ後退する。

「そんなに怖がらないで。大丈夫。一気に殺してあげるから」

 正気ではない瞳。
 女はふらりふらりと安定悪く距離を縮める。

「っ……やめ……」

 少女は擦れた悲鳴を上げた。
 少女の恐怖する表情を見て、女は極上の笑みを浮かべる。

「冴が悪いのよ? お母さんの言うことを聞かないから……」

 ナイフを構える。

「だから、処分しなくちゃね」

 表情は笑みを浮かべたまま、声は冷え切っていた。
 腹のそこから出したような低い声。感情など一切こもっていない。

「バイバイ、冴」

 振り下ろされるナイフ。
 少女は声にならない悲鳴を上げた。





 しとしとと頬を伝うものは何か……
 少女はふと目を覚ます。
 それと同時に激痛が走り、呻き声を上げた。
 身体がいうことを聞かない。
 少女は必死に記憶を手繰り寄せた。
 確か、自分は刺されたはず。そう思いだして、どうやら助かったらしいことを理解した。といっても、このまま放っておいても死ぬのは確実だろうが。それが少し伸びただけのことで。
 少女はゆっくりと、肺に溜まった息を吐き出した。息をするたびに、激痛が走る。
 身体が重く、雨が降っているのか、体が濡れて寒気さえ感じる。

「……っ……うぅ……」

 少女は泣いた。
 死にたくない。
 痛い。苦しい。
 いろんな想いが混ざり合って、耐えられなくて、少女は苦しみもだえながら泣いた。



 ―――――死にたくない……



 その想いだけが強く残る。

「助けてやろうか」

 突然聞こえた声。少女はそれに、とうとう幻聴が……と絶望した。

「答えろ」

 それでも、声は続く。
 それが幻聴でないとわかるまでに、少し時間がかかった。
 少女の前に忽然と姿をあらわした青年。彼の姿を認めて、少女は微かな希望を抱く。

「お前が望むなら、助けてやろう」
「……けて……たす、けてっ」

 死にたくない。
 その思いが強くて、ただひたすら哀願する。
 痛いのも苦しいのも忘れて。
 例え嘘でもいい。
 気休めでもいい。
 何かに縋りたかった。縋れる何かが欲しかったのだ。

「いいだろう」

 男は軽く頷き、自分の手首をきった。
 鮮やかな真紅が吹きだす。少女はその光景に息を飲んだ。
 普通、手首のあの場所を切ればただでは済まない。現に流れてる血の量だって半端じゃない。
 それでも、彼は平然と少女の傍に近づき、手首を少女の口元に寄せる。

「飲め」

 一瞬、何を言われているのか解らなかった。
 反応を示さない少女に痺れを切らせたのか、男は自分の手首の血を舐めると、そのまま少女の口に運ぶ。いきなり口付けされて、少女は思わず男の口から入ってきた血を飲んでしまった。
 唇が離れる。

「血に従え」

 男は即座に呟くと、少女の胸元に自分の血文字で印を刻んだ。そこが異常なほどに熱くなり、少女はグッと息を飲む。
 吹き乱れた風が二人を包み込んだ。
 淡い光が溢れる。
 少女はその光に飲み込まれるように、意識を手放した。





TOP   NEXT