14 記憶の交錯





 凪の自室に戻ると、冴は一気に身体を襲う脱力感に苛まれた。
 持ってきた水差しをテーブルに置き、脇に置かれたイスに腰を降ろす。凪が目を覚ました形跡はない。
 熱に侵されているのか、額に汗を滲ませ、苦しそうに喘いでいる。冴は拭き取れるところだけを拭い、水で冷やした布を額に乗せてあげた。
 ひやりとした感覚が気持ち良かったのか、凪の表情が少し和らぐ。その様子にホッと胸をなでおろした。
 あの後とりあえずオルビス達の部屋を用意して、渋るロコを説得して、ようやく状況が落ち着いた。
 一気に色々なことが起こり過ぎて、入ってきた情報量もキャパシティーをとうに超えていたので、正直くたくただ。酷い眠気に襲われながらも、凪を放っておくわけにもいかず、冴は自身を奮い立たせて今に至る。

(状況を一つずつ整理していこう)

 どうせ看病している間、眠るわけにもいかない。凪がいつ目を覚ますかもわからないし、先ほどのようにいつ魘されるともわからない。
 疲れてはいるけれど、気が高ぶっていてとても眠れそうにはない。頭と体をほぐす様に身体をゆっくり伸ばし、小さく吐息する。
 異端の人形師、ドーマ。
 ドーマが作る生きた人形、ドール。
 この世の理から外れた力を持つがゆえに、与えられたドールという名の盾と矛。そのドールは、ドーマが自在に意識を封じ操ることができる。
 補足すれば、痛覚も感じないようにできるらしい。オルビスから聞いた時は反応できなかったが、考えてみれば当然か、と思い当たる。操られているのだから、痛覚などあったところで意味がないのだ。
 何も感じない。それがドール化の真骨頂なのだろう。
 意識も、意志も、五感全てをも一時的に封じる、つまり奪うことができるのだ。
 実際ドールになっても、自分が人形である感覚はなかった。だってあまりにも人間であった時と変わらないのだ。
 けれど、ドール化の話を聞いて初めて自分が人形なのだと実感した。そしてあまりショックも受けなかった。むしろ、役に立てるという喜びの方が大きかった気がする。
 凪が冴を助けた理由も、傍に置く必要性も、わからなかった。だから、ドールとしての役目があるという事実は、それだけで冴には価値のあるものだったのだ。
 自分が凪の傍にいてもいいという確かな理由のような気がして。
 それなのに。

(どうして……)

 凪は自分を使わなかったのだろう。あの時、そんな素振りなど全く見せず、自らが盾になった凪。
 まるで冴を守るかのように。
 盾となるはずのドールをドーマが庇うなど、本末転倒もいいところだ。
 それも、ドーマの不老長寿が関係しているのだろうか。
 ドーマはその力の影響からなのか、ある一定の成長が過ぎるとそのまま老いることなく長い時を生きる。
 急所を刺されたり、頭部をはねられても死ぬことはないらしい。
 流石に頭部が身体から離れた経験はないらしいが、腕や足の一本二本は切り落とされたことがあるらしいディオールが、「腕も足も再生したから、多分頭もくっつくんじゃないかな」とさらりと恐ろしいことを言ってのけた時は一体どんな人生を歩んできたんだと突っ込みたくなったほどだ。
 外傷や病気でドーマが死ぬことはなく、彼らの死は、個人の寿命を待つしかない。
 そしてもちろんドーマに作られたドールも、彼らに破棄されない限りは長い時を生きることになる。元が人形なので、こちらも外見が成長することはない。
 ロコが、いい例だ。
 見た目はどう見ても十歳もいかないくらいの少女だが、彼女は百をとうに超えた年月を生きている。

(今度謝らなくちゃ……)

 知らなかったにせよ、見た目通りの子ども扱いをしていたことが、今更ながら恥ずかしくなった。
 冴は羞恥に染まる思考を振り払うように頭を振り、凪に視線を戻す。
 どちらにしても、あの時凪が何を思って冴を庇ったのか、その謎は深まるばかりだ。
 戎夜が冴に牙を向いた時、少なかれ凪は焦っていた。逃げろと。
 彼を追うように地を蹴った凪は、秒差で冴の盾になった。普段の態度からは想像もできないような行動。
 いつだって凪は冴に冷たかったから。
 嫌われているのだと思っていた。
 それでも、冴は凪を嫌いにはなれなかった。抱くのは、畏怖と仰望。凪の存在はあまりにも大きく、そして絶対的。
 決して軽視できない何かが、彼の中にはあった。
 大切なのかどうかは、よくわからない。でも、凪が傷つくのは、厭だと思った。
 絶対的な存在だからこそ、失うのが怖かった。
 あの時の恐怖は、測り知れない。目の前が真っ暗になって、死を垣間見た時と同じ、あるいはそれ以上のもので。二度と味わいたくないと思った恐怖。
 失いたくないと。失ってはいけないと。

「凪は、何を守りたかったの?」

 こんなに傷ついてまで。
 本当に、冴を守りたかっただけなのだろうか。
 守りたかったものは、【冴】だったのだろうか。
 凪がドール化すれば、ここまで傷つかずに済んだのに? それが自分も、延いては冴を守ることにもなったはずだ。
 それをしなかったということは、ドール化させること自体が嫌だったのか。そもそもその思考がなかったのか。
 【冴】を守る以外に何があるとすれば、それは【器】しかない。
 今の冴を形どる、人形としての器。
 その思考に辿り着いて、冴はぞくりと身震いした。

(ダメ、やめよう。これは、考えたらダメなやつだ)

 なんとなく、嫌な予感しかしない。よくわからないけれど、これ以上思考を巡らせるのが恐ろしかった。
 冴は湧いて出た疑念を払拭するかのように、縋るかのように、未だ目を覚まさない凪を見つめた。身体にまかれた包帯が、薄っすらと血で滲んでいる。掌も、血の気がない。
 その冷たい手を、冴は力なく握る。

「私、ここにいてもいい……よね?」

 それは祈るような、願いだった。





 *****





 視界に広がるのは、朱。
 その朱色が行く手を阻み、先に行くことが叶わないことを悟ると、少年は愕然と膝をおった。
 先には、大切な人。
 炎の合間から微かに見えた姿を最後に、助けることもできなかった。
 彼を止める青年の叫び声と、全てを飲み込んでいく炎の音だけが耳の奥を劈く。
 何もできず、何も見えない。見たくない現実。
 全てを失った瞬間を、少年が忘れることなど決してない。
 けれどその事実を受け止めるには、彼はあまりにも弱すぎた。

 ……壊れてしまうくらいに

 だからこそ身体を造り、少年は待ち続けたのだ。
 死を恐れ、死を垣間見た、あの孤独な少女を――――――





 喉の渇きに呼吸が苦しくなり、咽るようにして凪は目を覚ました。
 はっきりしない意識の中、妙に右手が温かいことに気づき視線を彷徨わせる。いつもの見慣れた天井から徐々に目線を下げていき、ある一点でそれが止まる。

「……」

 視線が捉えたその先の光景に、凪は僅かに目を見開く。
 そこには、自分の手を握り締め、ベッドの上に頭を伏せて眠っている冴の姿があった。それを理解して僅かに眉を寄せると、すぐさま視線を外す。
 同時に理解しがたい動揺が彼を襲い、誤魔化すように吐息すると、後を追うように傷口が疼いた。
 身体中に走った激痛に渋面を浮かべながら、実際どれほどの傷を負ったのか、彼は感覚で傷口を探る。片腕の感覚がないことから肩か腕かに深い傷があるのだろう。

(後は、腹部か……)

 呼吸するたびに痛みが走る。
 傷の痛みや身体の痺れから相当深い傷なのだろうことが予想でき、しばらくは絶対安静か、と静かに瞳を閉じた。
 どれくらい眠っていたのか……冴の様子からして恐らく一日、もしかしたら数日は過ぎているかもしれない。彼女はその間もずっと付き添っていたのだろう。
 凪は右手を意識しないように、思いをめぐらせる。
 オルビスの襲撃はあまりに突然すぎて、考える暇もなく身体が動いていた。
 ドール化させるという発想はもとよりなく、事が終わった今ですらその選択肢は彼の中にはなかった。
 そもそも死なない身体である自身を、守る必要などない。例えどれほど自分が苦しむことになっても、【彼女】が傷つく姿はもう二度と見たくない。
 眠っていた間に見た、悪夢。忘れることも、受け入れることもできない過去。
 まるで呪いのように、耳元で囁くように、その記憶は凪の精神を蝕む。
 だからこそ取り戻したい、どうしても。
 何を犠牲にしても。何を利用しても。
 絶対に取り戻すと、取り戻せると信じて、それだけを心の拠り所にして、長い時間を生きてきた。
 全ての駒が揃い、あとは実行に移すだけ。そして凪は望むものを手に入れる。そこに、迷いなどない。
 そのはずだった……

(なぜ……)

 それなのに。
 凪の瞳が、微かに揺れる。
 温かいのだ。
 繋がれた手の温もりが、記憶の中にあるものよりも温かい。
 他人に触れられることが何より不快だったのに、それを感じない自分がいることに動揺を隠せなかった。
 この温もりを忘れてから、どれだけの時間が経っただろう。まともに人と接触しなくなってから、全てを失ったあの日から、長い時間が過ぎているのだと改めて突きつけられた。
 力の入らない身体を忌々しく感じながら再び瞼を上げ、凪は眠る冴に視線を戻した。
 眠っている姿は、【彼女】と同じなのに、それ以外は全く違う。性格も、表情も、声も。
 同じ姿、同じ形なのに、なぜこんなにも違って見えるのか不思議だった。確かに重なる部分もある。だがそれは一瞬で、すぐに別人だと認識できるほどには、些末なことだった。
 彼女がただのお人形でいてくれれば、こんなにもかき乱されることはなかっただろう。だからこそ凪はこれまで冴に近づくことを極力避けてきた。
 それも、ディオールの強行により叶わなくなってしまったが。凪は冴と関わる度に、自身の世界が壊れそうになるのが恐ろしかった。

「さ……ら……」

 痛々しく零れた言葉は、誰の耳にも止まらなかった。
 ただ、苦しい。
 『冴』の存在が、凪には苦しい。
 これほどまでに心を乱されるとは、自分が動揺するなどとは思いもしなかったから余計に。
 揺り動かされるなんて。
 たった、これだけのことで。
 凪は耐え切れず、握られた手を振りほどこうと試みる。実際は力が入らずそれは叶わなかったが、何度か繰り返しているうちに、冴がその僅かな振動で目を覚ました。
 ゆっくりと上体を起こし、覚醒しきらない意識の中で彼女は凪の姿を捉える。まだ眠っているのだろうと思っていた冴は、自分を見ている凪の瞳と出会い、その瞬間目を見開いた。

「な……っ」

 まさに穴が開くほど彼の姿を凝視した。途端に溢れた温かい熱に目を細め、笑顔を浮かべるも歪んでしまう。

「よか……良かった。本当に、良かった」

 ボロボロと零れる涙が、シーツに染みを作った。
 涙でぬれ、笑おうとするのに笑えない顔を隠すこともせず、冴は握ったままの凪の手を強く握りしめていた。
 何か言いたそうなのに、言葉にできないその様子に、胸が苦しい。

(やめろ。泣いたりするな……)

 凪は声にならない唸り声をあげる。
 なぜ。
 なんで。

(彼女は、違うのに)

 冴は【彼女】ではないのに、なぜ。
 その顔が、表情が、美しいと思ったりしたのだろうか。
 できるなら、動くなら、その涙を拭ってやりたいなどと思ったりしたのだろうか。
 なぜ、拒絶できなかったのだろうか。
 代わりに、人の温もりがこんなにも安心できるものなのだと思い出して、複雑な色が浮かぶ。
 そう、たったそれだけのことで。

 握られた掌が、温かかったから。
 自分に向けられた眼差しが、あまりにも優しすぎたから。

 こんなにも……――――――





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