1.はじまり



 俺は目前で黙々と必死にシャーペンを滑らせている少女をぼんやりと見つめていた。時々思案するように手を止め、またカリカリと紙の上を滑らせていく。
 少女こと、篠沢 七香(シノザワ ナノカ)。彼女は今、日直日誌に奮闘中なのである。
 癖っ毛のあるショートの髪が窓から吹き込んだ柔らかい風に揺れ、ほのかに甘い香りが漂い、俺の鼻をくすぐった。
 俺はふと窓の外へ視線を向ける。辺りが赤く染まる時間帯。放課後の教室。
 本当ならとっくに家に帰っている時間だが、今日はたまたまもう一人の日直であったクラスメイトが欠席だっために、頼まれて仕方なく篠沢につき合ってわざわざ放課後に居残ってるのだ。
 別に放課後の二人きりのシチュエーションがおいしいから引き受けた、とかそんなやましい理由なんかでは決してない。決してそんなことは微塵も、露ほども思ってないぞ。

 ……ごめんお袋、俺嘘ついた。

 自分こと君島 硝威(キミジマ ショウイ)は、ぶっちゃけたところ、篠沢 七香に惚れている。未だクラスメイト兼友人どまりの関係ではあるが。
 だから、あわよくばこの居残りで一気に距離を縮めようかなーとか淡い期待をしてみたわけだ。
「……まだ終わらねぇのかよ?」
 しかし現実はそんなに甘くない。必死で日誌と格闘している篠沢に、先ほどから間隔的に同じような質問をしてはみるものの、返ってくる答えはもうちょっと、という生返事のみ。
 他の問いをしてみても、上の空。距離を縮めるどころか会話すら成り立たない。
「日が暮れちまうぞ。何でそんなに時間がかかるんだよ?」
 たかが日直日誌。先ほどから三十分以上もそれに費やしているが、一体何を書いてんだか。
「あと感想だけだから」
 のぞき込むと、感想の欄に一行ほど書き込まれているのが見えた。日直日誌なんて、日付と名前、それから今日の時間割と感想くらいしか書くことないだろ。にも関わらず、三十分以上もかけてやっと感想にたどり着いたのか?
 俺は嘆息しかけて、ある一点で視線が止まった。息が詰まる。
 名前の記入欄。篠沢の名前の隣に、何度も書きなおしては消されたあとがあり、薄っすらと黒ずんだその上に、俺の名前が書かれていた。


君島 ショウイ


 ……ちょっと待て。
「お前もしかして、俺の名前の漢字が分からなかった……とかじゃないだろうな?」
「う」
 マジかよ。
 同じクラスメイトの、しかも結構仲がいい友人の名前の漢字が分からないだと? 
 親しく喋るようになって半年は経つんだぞ?
 俺はお前の名前も書けるし誕生日だって分かるし、なんだったら家族構成やスリーサイズだって言えるんだぞ?
 それをお前、俺の漢字が分からないってどうなんだよ。
 しかもそれを思い出すのに三十分以上もかかって、結局分からずにカタカナ? っていうか、さっさと俺に訊けよ。
「ありえねぇ」
 へこむし、マジ落ち込むぞ。
「ご、ごめんっ。だって君島くんの漢字って、難しくて……」
 俺は今度こそ嘆息した。
「だからってお前な……」
 言いかけて、やめる。ダメだ、こいつには何をいっても無駄なんだ。何といっても、人の顔と名前を覚えるのがおそろく苦手であり、俺の名前を覚えるのにも、かなり時間がかかったくらいなんだから。
 へたすりゃ変な風に変換されてエライことになる。俺なんかショウイをジョーイと間違って覚えられてて、しかも篠沢は俺のことを本気で外人だと信じていたらしい。
「俺の漢字は硝子の硝に、威厳の威だ。ちゃんと覚えとけよ」
「うん、まかせて。精一杯頑張るから」
 微妙に会話が咬み合ってねぇよ。まぁ、そういうズレたところも含めて好きになってしまったのだから、しかたないけど。惚れた弱みってやつで、まぁ、今は俺を日本人と認めてくれるようになっただけでも良しとしよう。
 ……いや、待てよ。
 逆にこうなりゃ二度と俺の名前を忘れられないようにしてやろう。やっぱり日本人云々とか甘いことは言ってられない。押しすぎるくらいがこいつには丁度いいんだ。
 絶対堕としてやるから覚悟しとけよ。
 俺は篠沢に向けて、心の中で宣戦布告する。彼女はそんなこととは露知らず、たった今聞いた俺の名前を漢字に書きなおしていた。
「うん。完璧っ!」
 そういって日誌を俺につき出す。


君島 消威


 そこには丸まった文字が規則的に並んでおり、俺の名前ではないものが堂々と記されていた。


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