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――――――ありがとう、私、幸せだった……
傾く身体。
それの後を追うように流れる長い皇かな髪。
凪はその華奢な身体を受け止める。意識を失ったその顔には、一滴の涙が。
冴は、もういない。
その人格を糧として、踏みにじるように、更を復活させるためだけに利用した少女は、もうここにはいない。この世のどこにも、魂でさえ、切り離されて。
完全なる無への墜落。
そこに、救いはない。
「っ……貴様! 自分が何をしたのか解っているのか!?」
掴みかかるように、戎夜がとびかかる。胸ぐらをつかみ、怒鳴りつけた。彼らしくない取り乱しように、さすがのオルビスも一瞬何が起きたのか把握できずにいた。
「戎夜」
「お前が犠牲にしものが、どれだけ大きいものか解っているのか!?」
「戎夜!」
オルビスが制止の声をかける。それに、めずらしく戎夜が反抗的な眼差しを送った。
「オルビス!」
なぜ止めるのかと。同じ気持ちではないのかと。
目の前にいる男が許せない。憎いとすら、思ってしまいそうなのに。
「落ち着きなよ」
言われ、ハッとなる。戎夜はようやく冷静に目の前の青年を見た。
「……」
凪は冴を、いや、人形を抱きかかえながら、ずっと俯いている。
その瞳に映るのは、確かに更の姿をした人形。中身も、やっと更のものになろうとしている。
どれだけそれを望んできたか。それだけを願ってきたか。
それなのに……
何故こんなにも胸が痛むのか。何故こんなにも自分は後悔なんてしているのか。
凪には解らなかった。
望むものは更だけだったはずなのに。それだけだったはずなのに。
冴という少女を失って、その事実がひどく凪を責めるのは、なぜなのか。
「更……俺は、もう一度お前に……」
ただ会いたかった。取り戻したかった。
全てをかけた少女を。生涯愛した女性を。
そのために、今まで必死で生きてきたはずなのに。
たった一人の少女に、それを揺るがされたようで。
「……後悔しているのか?」
戎夜は動かない凪に向かって、呟いた。
なぜ、という思いしか浮かんでこない。後悔するくらいならば、なぜ……
「なんで冴を断ち切ったんだ……なぜ、彼女だったんだ」
凪同様、項垂れた戎夜は、顔を手で覆った。
後悔しているのは、戎夜も同じだ。
あの時。無理やりにでも引き留めていればよかった。何をしてでも、たとえ嫌われようとも、彼女を行かせるべきじゃなかった。
彼女さえ生きていてくれれば、後のことなどどうでも良かったのに。
戎夜は、泣き叫びたくなった。喚いて、叫んで、消えてしまいたい。
それくらい、想っていた。今さらに思い知る。
全てが、遅すぎた。
そんな戎夜の思いを察したのか、つられる様にオルビスも泣きだしそうになった。泣き叫んで訴えて、凪とディオールを責めてやりたいと思った。
でも、彼らの気持ちも、どこかで理解している自分がいた。
彼も、失ったものを取り戻したいと思ったことがある。きっと、大切な人を亡くした者は、誰だって一度は思ったことがあるはずだ。
できることなら、もう一度会いたい、と。その気持ちを、責めることはできなった。
ただ、冴を犠牲にしたことに対しては、別問題だけれど。
「……感傷に浸っているところに水を差すようだが」
ただ一人、事の成り行きを静観していたヴィオラが、難しい顔を浮かべて口をはさんだ。全員が一斉に彼女の方へと視線を向ける。
「様子がおかしいぞ」
視線だけで示した先に、冴だった人形を抱いている凪がいた。
「……っん」
眠ったようにピクリとも動かなかった人形が、表情を変えた。柳眉を顰め、息苦しそうにもがいている。
「まさか本当に、蘇った?」
オルビスとヴィオラが信じられないものを見るような眼で二人を凝視する。
「更……か? 更なのか?」
それに応えるように凪が呼びかけると、その瞼が静かに開いた。ぼやけた眼で、周囲を探る少女の姿に、凪の表情は和らいだ。
「俺が分かるか? 更」
「……な、ぎ?」
「そうだ。本当に更なのか? 本当に……」
不安は完全には拭えない。本当に更の意識が完全に蘇ったのかどうか。
彼女を蘇らせるために費やした時間は、短かったとは言えない。けれど、こうも都合よく一人の人間が簡単に蘇るものなのか。たった一人の少女の犠牲だけで。
長い間、更が蘇ることだけを夢見てきた。もう少しで叶うというのに、どこかで警響が鳴っている。それを誤魔化すように凪は更を強く抱きしめた。
「凪……私……私は」
「ああ、更。この時をずっと待っていた」
腕の中に確かな温もりがある。
喜ぶべきなのに。
「どうして……私、は……」
「更?」
様子のおかしい少女に、凪は顔を覗き込んだ。そして、瞳孔が開いた。
「どうしたんだ、更?」
「私……わたし、誰? ワタシ、わたし、私は……誰? だれダレ誰ダレだれ……あ、あぁ……あああああああああっ!!!!!!」
髪をかきむしるように頭を振り、取り乱す少女。
混乱したように雄叫びを上げるその姿は、鬼気迫るものがあった。
「更! 更!? 落ち着くんだ!」
抱きすくめるように腕に力を込めるが、それを全力で振りほどこうと、少女は暴れた。
頭を振り、凪の腕から逃れようとする。
予感とは、こうも期待通りに訪れるものなのか。凪は奥歯を噛みしめる。
「これは一体……」
戎夜が息を飲んだ。
「おそらくは、失敗。あまりに長すぎたんだ。身体から魂が離れて、魂の記憶は一端リセットされたんだよ。だから今、どちら″なのか解らなくなっているんだ」
「そんな……このままだとどうなるんだ?」
「遅かれ早かれ……壊れる。本当の意味で」
「そんな馬鹿な話があってたまるか! それではあいつが、冴は何のために……!」
犠牲になったというのか。
戎夜は奥歯を噛みしめる。
結局、凪はどちらも手に入れられない。全てを失い、終わる。
命を支配するということは、そういうことだ。
「うぁ……あ……あああああああぁぁッ!!!!!」
かくん、と、少女の動きが止まる。それはまるで人形のように。
瞬き一つせずに、止まった。