] 張り詰めた空気。 静まり返った空間。 痛みを忘れた人形が、一体。 投げつけられた言葉に、従うことしか許されない。 「全部揃った。俺は欲しいものを取り戻す」 それは完全なる終わりの言葉だった。 冴を抱きかかえたディオールの腕に力がこもる。 「お前に出来るのか? 私でさえ未だ取り戻せないのに。一体どうやって取り戻すと?」 挑発するような、北のドーマ、ヴィオラの言葉に、凪は静かな笑みを浮かべた。 「お前では無理だろうな」 「なんだと? 私が貴様に劣っているとでも?」 「それもあるが、そうじゃない。足りないんだ。お前は、一番必要な『もの』をもっていない」 答えた凪の言葉に、ヴィオラは眉をひそめた。意味が分からないという風に、訝しむ。 「魂を、持っていないだろう? 取り戻したい者の魂を」 「!? 馬鹿な! この世に輪廻転生などない。死者の魂はその場で消滅する。それを得るなんてことは不可能だ。それは私達が一番よく知って……―――――!」 途中で、言葉が止まる。 気付いたからだ。 冴を支えている、青年の存在に。 ディオール・アルバード 守るために、全てを拒絶し、隔絶する力。 「まさか……そんなことが?」 少女の言葉に、ディオールの瞳が曇る。 この場にいる冴以外の者は、ヴィオラの言葉の続きを知っていた。 オルビスや戎夜さえも、彼女の言葉で全てを理解したのだ。 黒幕が、誰であるかを。 共犯者が、誰であったのかを。 「ごめんなさい……ごめんなさい、冴。ワタクシが、もっと早く気づいていれば、止められていれば……」 隣で泣いている、幼女。 今にも泣き出しそうな、青年。 「ディオ?」 冴には解らなかった。 どうしてこんなにも、苦しそうな表情を浮かべているのか。そっと頬に触れると、ディオールの瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。 「ごめん、冴ちゃん……僕が、君を……」 唇を噛みしめるディオールの顔が苦痛にゆがむ。言葉が出ない彼を見かねて、代わりに続きを拾ったのはオルビスだった。 「冴の魂は、もともと『更』って子の魂だったんだね」 それは独白のようにも聞こえた。自分に納得させるために呟いたような。 「ディオールの力で、消滅する前の魂を保護し……そして別の器に移し替えた。おそらくは、死体に」 「そう……その通りだよ。更ちゃんの魂は身体から離れてしまって、血の契約が間に合わなかった。だから咄嗟に、僕は保護してしまった。でも、血の契約もしていない、浮遊する魂を手元に留めることはできなかった」 飛んでいくものを保護しても、その行き先までは操れない。外敵から守ることはできても、自由を奪うことはできないのだ。 「だから、さまよう魂を、僕はずっと見守っていた。何度か死体に吸い寄せられてはいたけれど、それに定着することはなかった。その間にも、凪は衰弱していて……何とかしてあげたかった。大切な人を失った時のあの言い知れない喪失感は、僕も知っていたから」 噛みしめるように、ディオールは言葉をつづけた。 「魂の定着はうまくいかず、諦めかけていた時だった。臨月を迎えた、妊婦が現れてね。更ちゃんの魂は、その妊婦に定着したんだ」 「生きている人間に?」 「僕も驚いたよ。意味が分からなくて……でも、すぐに理解した。魂は女性にではなく、お腹の子に定着したんだ。死んでいたお腹の子にね」 冴の瞳孔が開く。 昔、母が言っていた。 『冴はね、生まれてくるのがちょっと遅かったの。皆が死産だよ、なんてばかなこと言うから、怒ったのよ。死産だったなら、目の前にいる私の可愛い子は一体誰だっていうのかしらね?』 母がおかしかったのは、初めから。物心ついた時には、すでにあの状態だった。 それがもし、冴の出生が原因だったとしたら? 「女性の子どもは生まれる前に亡くなっていた。その胎児に魂が定着し、新たな命を宿し、そして……女の子が生まれた」 ディオールの声が、どこか遠い。 「それが……それが、私……?」 望んでいた子供が死産。 生まれてくる前に亡くなっていることを知り、そんな現実を受け止められずにいた母親。 その子供が産まれたら、周りは一体何を思うのだろう。 大体が、思うだろう。 気味が悪い。と。 そして母親はおかしくなった。 生と死の境目が不確かになったのだ。 死んだはずの娘が蘇ったのだから。 「私は一体……何なの?」 冴として生まれてくるはずの子どもは、初めから存在などしていなくて。魂が更のものならば、それは冴ではない。 一体、誰なのだろうか、自分は。 わけが分からなくなった。 一番の異端者は自分ではないか。 この世にあるべき存在ではない冴が、一番の異物。 「初めから、全部、嘘だったの?」 決められた筋書きの上を歩かされていただけだったのだ。生まれる前から、決められていたのだ。 こうなることを。 どうやったって、逃れられないじゃないか。 まるで走馬灯のようになだれ込む今までの映像。 母との思い出。記憶。 今まで培ってきたものは、偽りなんかじゃない。 凪との思い出。記憶。 芽生えた感情は、偽りなんかじゃない。 それだけは、確かに自分が感じて、自分が大事に守り続けてきたものだと、そう信じていた。 でも、それさえも偽りだというのなら、では、何が真実だというのだろう。 「……教えて」 ぽつりと、紡いだ。 「凪が必要なのは、更さんだけ?」 静かに涙をこぼし、それでもまっすぐに凪を見つめるその瞳に、誰もが息を呑んだ。 しかし凪だけが、その瞳から視線を外した。 「……そうだ」 意識があるというのは、感情があるというのは、自我があるというのは、これほどにまで残酷なことなのか。 断ち切られることが、これほどまでに恐ろしいなんて、誰が想像できただろう。 終わらせる覚悟なんて、持っていなかった。 今だってそうだ。こんなにも恐ろしい。 震える身体を、止められない。 それでも、凪が出した答えを、冴は飲み込んだ。 そして、言葉など、何の意味も持たないのだと、理解した。 何を言っても、何を叫んでも、理解などされない。だってこの気持ちは、作られたものだから。初めから、与えられているものだったのだから。 「私が頷けば、凪は幸せになれるの?」 答えはなかった。否定も肯定も、何もなかった。 ただ、静かだった。静かすぎて、恐ろしいくらいに。 だから、それが答えなのだ。否定しないということは、それはつまり、肯定ということだ。 「……そう」 自然と、項垂れた。 もう、何も見なくていいように。見れば、気持ちが揺らぐから。 本当は、叫びたかったのだ。 偽りなんかじゃない。 決められた感情なんかじゃない。 例え偽りの優しさでも、ただの繋ぎだったとしても、冴にとってはそれが全てだった。 「だったら、いいよ」 笑おうとするけど、笑えなかった。涙でぐしゃぐしゃになる。 「私は、それで……いいから。凪がそれで幸せになるなら、いいよ。私は、嬉しい」 自分は救われた。その事実は、揺るがない。 冴にとっては、凪が全てで。 彼女にとっては、それは裏切りではなくて。 例えこの思考すら、支配されたものだったとしても。 凪のためにならば、冴という存在をも捧げよう。それで凪が幸せになれるのならば、望むものが手に入るのならば、それでいいじゃないか。 一緒に過ごしたのは少しの間だったけれど、今までにないくらい、幸せだったから。 皆が優しくしてくれて、みんなと仲良くなれて、友達もできて。 決して、不幸なんかじゃなかった。 だから、誰も憐れまないで。可哀相なんかじゃないのだから。 凪を恨む気持ちも、失望もない。 ただ、感謝と、凪を想う気持ちだけなのだと。 それなのに。 冴の顔は歪む。笑おうとするのに、哀しみに染まる。涙がそれをいっそう邪魔して、ますます笑顔とは程遠い表情が刻まれる。 冴は強く手を握った。白くなり、そこから血が流れ出しても、手の痛みなんてなかった。 「待って! こんなのあんまりよ、やめなさい、凪・リラーゼ! 冴も、頷いたりしないで頂戴。ワタクシ、まだまだ貴女とやりたいこといっぱいあったのよ? せっかくお友達になれたのに……」 ロコが、割って入る。その表情は必死だった。声で解る。だからこそ、冴は目を瞑った。 見たら、見てしまったら、掴んでしまいそうになる。生きたいと、願ってしまいそうになる。 「そうだ、冴。お前が望むなら、俺は全力でお前を守る。だから、俺を選べと言ったんだ」 重なる、戎夜の声。それは、どこか怒気を含んでいた。凪を牽制しているのか……冴は、耳も塞いだ。 やめてほしい。 これ以上、揺らがせないで。与えないで。 「僕も、冴を傷つけるなら容赦しない。やめるべきだ。上手くいくわけない、こんなの。あんたは、結局全てを失うことになるよ、凪・リラーゼ。いい加減、目を覚ましなよっ」 冴は唇をかんだ。 「やめて! 皆……もう、言わないで」 目をふさいだまま、耳をふさいだまま、心を閉ざしたまま、冴は叫んだ。 「ありがとう、心配してくれて。でも私は、凪のために出来ることがこれだけなら、それに応えたい。だから……いいの」 欲するものは、凪だけ。 彼の心が、自分にだけ向いて欲しいと、どれだけ願ったのだろう。夢見ていたのだろう。 だけど、どうやったって凪の決意は変えられないのなら、受け入れるしかないのだ。 「冴ちゃん……」 自分を支えてくれていたディオールの手が、離れる。気配も、遠のいた。 彼は何も言わなかった。言う資格も、ないと解っていたのだろう。 「……」 ディオールが離れるのを待っていたかのように、凪は無言で冴の前に立った。 その手が迫るのを感じ、少女は瞼を上げた。視界に広がる、美しい顔。 無表情のまま自分を見下ろす、その闇色の瞳に、全てを託そう。凪の、幸せのために。 凪は、冴という人格を消すための言葉を、ゆっくりと紡ぎ始めた。 二人を囲む疾風。乱れるそれに、冴の髪が揺れた。 終わりが来る。 自分は、消える。 それが死といえるのかも解らないような終わり方で。 冴は瞳を閉じた。 身体が重たい。頭がひどく痛く、何かが引き剥がされるような痛み。尋常ではない痛みにもかかわらず、冴は悲鳴を上げることもなく、ただそれを必死にかみ殺していた。 死ぬのか…… それが、漠然と感じ取れた。 もう、凪の顔も見えない。 閉じられた瞳が再び開くとき、そこにはもう、冴はいないのだから。 「……凪、ありがとう」 それでも、まだ言葉が残っているから。最期に。 「私、幸せだった……」 自分の最期に、伝えたかった言葉を、冴はありったけの想いで紡ぐ。 凪が目を見張った。一瞬詠唱が乱れたが、それでも途切れることはなかった。 淡い光に包まれて、冴の身体がゆっくりと傾いでいった。 |