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 鈍い音が、間近で鳴った。
 凪を庇うように抱きしめた背中に、衝撃が走る。
 まるで電気を流されたような痺れた痛みに、冴は呻いた。
「……っ!」
 表情を歪めた冴を見て、凪は目を見開いた。カッと頭に血が昇るのがわかる。
「冴!」
 遠くでオルビスの呼ぶ声が聞こえたけれど、冴には応える余裕がなかった。ただ、今にも暴れだしそうな彼を抑えつけるので精一杯だったから。
「凪、落ち着いて」
 呼吸ができない。息をするのが苦しく、声もかすれている。そんな冴を前に、凪は唇をかみしめた。拳を握りしめ、冷静さを取り戻す。
 落ち着いた凪を見て、冴はにこりと微笑んだ。抱きしめていた腕の力を抜き、ゆっくりと彼から離れる。
「冴?」
 柳眉を寄せる凪に微笑み、言葉なく制止をかけた。そこにいて、と。
 凪は、動けなかった。
 少女はそのまま、くるりと向きを変え、まっすぐにその人を見据えた。ローブに包まれたまま立ち尽くしている、その人を。
「どうして、こんなことをするの?」
 苦しい。
 背中の傷から滴り落ちる感覚が、とても不快だった。
 ドールの治癒能力を持ってしても、どれくらいで完治するのかは分からない。しばらくは、この苦しみと闘わなければいけないのだろう。
 けれど冴には、そんなことはどうでも良かった。
 今は、少年のほうが一大事だ。
「もう、やめて」
 冴はよろめきながらも、歩み寄る。
「! 来るな!」
 すぐさま少年を自分の前に移動させ、冴がこれ以上自分に近づくのを阻止しようとする。けれど、冴は止まらない。
 目の前で威嚇している少年を、ゆっくりと抱きしめる。
「もう、大丈夫。よく頑張ったね」
 抱きすくめられて、少年の目が見開かれる。
「ね……さま……」
 ドール化されているはずの少年が、言葉を紡ぐはずのない人形が、擦れた声で囁く。腕を伸ばした先には、何もない虚空。それでも、少年は手を伸ばし、何かを掴もうとしていた。
 何度も何度も、頭をなでて、冴は少年を抱きしめる。少年は予想外の出来事に、痙攣を起こし、ガクガクと震え、やがて意識を手放した。
 限界だったのだろう。彼は、壊れかけていた。
 これ以上無理をすれば、魂が危なかったのだ。
「貴方にとって、この子は物なの?」
 ゆっくりと床に寝かせ、冴は再び視線を上げる。
 責めるような、眼差し。初めて、冴が怒っていた。
 周りに緊張が走る。
「物以外に何だというんだ。お前なんかに何がわかる!」
「分からないわ……だけど、これだけは分かる。この子は貴方をずっと心配していた。ドール化されたままでも、操られたままでも、この子の中には最初に見た、貴方の笑顔だけが強く残っていたから!!」
 冴がまくしたてる。
「自分の身よりも、この子はずっと貴方の身を案じていた! ずっとずっと、助けてあげてほしいと、泣いていた! それでも、貴方は物だっていうの!?」
 訴える冴の言葉に、ぐっと、奥歯を噛みしめたのが分かった。それでも受け入れられず、躍起になって冴に飛びかかる。
「お前なんかに! 私の気持ちがわかるものか!」
 飛びかかった拍子に、頭まで覆っていたローブが外れ、その姿があらわになる。
 現れた姿に、冴は眼を見開いた。
 それは、燃えるような紅蓮の瞳。強い意志を秘めたその眼差し。
 そして、輝くような銀色の髪と透き通るような白の肌。
 なんとも美しいその姿に、呆気にとられる。言葉が出ない。何より、一番驚いたのが……
「貴方は……」
 組み敷かれた冴は、自分を見下ろすその美しい『少女』に思わず魅入ってしまった。
「私には、ケイトしかいなかった! ケイトさえいてくれれば、それで良かったんだ!」
 胸座をつかむ少女の手が、震えている。
 苦しんでいるのは、彼女も同じなのか。
「だからと言って、貴方がしたことは許されることじゃない。あの子の中にも、魂が宿っているなら、それは物ではないもの」
「ケイト以外の人間など必要ない。他の人間のことなど、知ったことか!」
「ケイトはもういないの! 目を覚ましなさい! 死んだ者は甦らない!」
 冴の言葉に、少女の動きが一瞬止まった。けれどすぐに怒りの形相を浮かべ、憎悪するように首を絞められた。冴はそれに抵抗しながら、少女の体を引き剥がそうともがく。
「嘘をつくな! だったら貴様のドーマはどうなんだ!?」
 それは、今一番冴が恐れていたことへと繋がる一言だった。
 ドクリと、心臓が脈打つのが分かる。苦しい。
「お前のドーマだって、私と同じだ! 亡くしたものを取り戻したくて、お前を犠牲にしているんだろう!?」
 冴を睨みつけていた少女は、凪の方へ視線を向けた。
 その瞳には、否定を許さない怒気が浮かんでいる。
「私とお前と、一体どこが違うって言うんだ!!」
 苦し紛れに、少女の視線を追った冴の視界に飛び込んできたのは、あの冷やかな眼差しだった。
 出会ったばかりの頃、よく浮かべていた、あの突き放すような冷たい表情……
 それが全てを、物語っていた。
 それが、肯定の証だった。
 冴は身体の力が抜けていくのを感じた。抵抗していた力が弱まり、首を締め付ける力が強くなる。
 苦しい。
 でも、もう何が苦しいのか分からなくなった。
 このまま息絶えれば、もう目覚めることはないのだろうか。
 終われるのだろうか、傷つく前に。
 傷つけられる前に、全てを投げ出してしまえたら、どれだけ楽だろう。
 息が、できない。
 本当なら、これで終われるはずなのに。
「……っ」
 終われないのだ、ドールであるが故に。
 逃げ出すことも、許されていない。
 ただ、受け入れることしか、できない。
 自然と、涙がこぼれた。頬を伝い、首を絞めていた少女の手に零れる。
 冷たい感触にハッと少女が視線を戻すと、全てを諦めたような冴の瞳とかちあった。
「お前……」
 少女の腕の力が緩む。
「お前まさか……あの男のことが……」
 こういうとき、女の感は侮れない。
 彼女はすぐにピンときた。そして、嘲笑する。
「だったら滑稽だな! 良いことを教えてやろうか? その感情は愛じゃないし、恋でもない。だってそれは当り前の感情だから。ドールはドーマが特別なんだ。その特別を、お前は勝手に取り違えて、勝手に傷ついているだけなんだよ!」
 降ってきた言葉が、冴の意識を鮮明にさせた。
「どういう……」
 意味が分からず、冴は少女に食いついた。
「血の契約をしただろう? あれは器に魂を定着させるために、内側から支配するための契約だ。その血の契約がある限り、ドールはドーマには逆らえない。いや……逆らうという概念すら与えられない。だから絶対的存在なんだよ。お前が凪を好きだと思う気持ちは、当たり前のことなんだ。恋じゃない。凪の血に絡めとられた瞬間から、初めから与えられている感情だから」
 確かに初め、凪の血を飲んだ気がする……冴は必死に記憶を呼び起こし、そして少女の言葉を反芻した。
 これが、この気持ちが、初めから与えられていたもの?
 凪を知るうちに芽生えた感情ではなく、子どもが親を慕うのと同じことなのであれば、それは確かに、『恋』ではない。
 この気持ちですら、作られたものなのだとしたら……
「どうやら、一足遅かったようだね」
 もはや泣き顔を隠すこともなく、静かに涙をこぼす少女に向けて、降ってきた声。
「な!?」
 北のドールである少女を冴から引き剥がすように腕を持ち上げながら、複雑な表情を浮かべたディオールが、そこにいた。
 急に体が浮いて、少女は驚いたように後ろを振り向き、殺気を飛ばしまくっている。
「放せ! 私に触るな! 貴様! こんなことをしてただで済むと……っ!」
「ヴィオラ、少し黙っていてくれるかな?」
 そういったディオールの表情は笑顔なのに、ひやっとした空気に、思わずその場にいた誰もが口をつぐんだ。
 ディオールは少女を遠ざけ、横たわっている冴に手を伸ばす。冴はその手をぼんやりと見つめていた。焦点は、合っていない。
「冴ちゃん……」
「冴!」
 ディオールが見かねて抱き起そうとした時。半ば体当たりするように冴に抱きついた、幼女。
「冴! しっかりなさいな! ワタクシよ? 分かる?」
 冴の顔を両手で包むようにして、ロコは冴の瞳を覗き込む。今の冴は、物事を認識するのがものすごく遅いらしく、しばし固まってから、細々と言葉を紡いだ。
「……ロコ?」
「そうよ。帰ってきましたの。もう、どこへも行かないわ」
 今にも泣き出しそうなロコの瞳に、冴は不思議そうに小首を傾げる。
 さっきまであんなに痛くて苦しかったのに、今は何も感じない。
「とりあえず、場所を変えよう? 説明はその後で……」
 取り繕うようなディオールの言葉を遮るように、それは響き渡った。
「もう、いいだろう」
「凪……」
 ディオールの顔が強張る。
「時は満ちた。全てを終わらせる」
 冷たい声が、意識を手放すことを許さない。
 もう、何も聞きたくないのに。
 もう、何も見たくないのに。


 何も……



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