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 たゆたう世界。
 まどろみの中のような、曖昧な場所。
 そこで、一つの意識が目覚めた。
『ここ、は……?』
 消えたはずの自分の意識がある。
 酷く不安定ではあるが、まだ自分が冴であるということは認識できた。
 音も色もない世界。
 いや、色はあるのかもしれない。ただ、彼女にはこれが何色なのかの認識がなかった。
 静かにたゆたう確定しない意識。ぼんやりと、けれどゆっくりと流れていく時間。
 自身が発した声を認識できるくらいには、少女の意識は覚醒していた。
 姿を認めようと手を動かしてみる。けれど、何も見えない。手がある場所を意識して動かしても、己の腕が動く感覚はない。
 自分が今どんな状態にあるのか解らないまま、何もない世界は唐突に光に包まれた。
 眩しい。目を細めようと意識するが、やはりそれをしている感覚はない。
 思えば、声を発した時も『喋る』というよりは思ったことが『漏れ出ている』という感じだ。
「今の貴女には身体がないから、動かそうと思っても無理よ」
 光が消えたと同時に、目前に人影が浮かぶ。
 とても見覚えのある、少女の姿。
『……私?』
 思わず零したあとに、すぐに違うと確信した。姿は全く同じ、ドールであったときの自分と同じ顔貌の少女が誰なのか。
 同じだけど、違う。
 同一であり、全く異なる者。
『更、さん』
「初めまして、かな? 何だか変な気分でしょう? 同じ姿の人間が目の前にいるのは」
 頷く。確かに妙な気分だった。
「あまりゆっくりもしてられないから、簡単に説明するね。ここは、私と冴が唯一交わることのできる場所なの。交差点みたいなものだと考えてくれればいいわ」
『交われる場所?』
「そう。私は今、貴女の意識を糧に無理矢理に更としての記憶、人格を呼び戻されている状態にあるの。そして貴女は逆に無理矢理に消されようとしている」
 そうだ。
 更を蘇らせるために、冴の記憶、意識、人格は犠牲になったのだ。
「私は姿を戻し、記憶を戻し、意識を戻す。貴女は姿を失い、記憶を失い、そして意識を失う。ちなみに冴は今姿と記憶の一部を失っている状態なんだけど、つまりこの過程で一瞬だけ私たちの意識が交わる瞬間ができる。それが今のこの場所。本来ならこんな風に留まることはできないんだけど……」
 更の説明は簡単に、と言うだけあって端的過ぎて逆にわからない。
 とりあえず解るのは、自分の姿と記憶の一部がないことだけ。後の過程とやらはよく解らないが、感覚で捉えることにした。
『どうやって、私たちは留まっているの?』
 本来ならできないことを、どうやってやってのけたのか。
 最も解らない言葉の意味を、冴は問うた。更はその問いに、辛そうに微笑む。
「私のせいで、冴には辛い思いをさせちゃったね」
 その瞳が映したものは、後悔だったのだろうか。
「だからね、抵抗しているの。更という人格が蘇るのを。冴を消滅させるわけにはいかないもの。貴女が失ったものと同じだけ、私も取り戻したの。自分が犯した過ちを。私は……もう戻れない」
『そんなっ!』
 それでは駄目なのだ。
『戻ってください、更さん。そのために、私は……』
 凪に必要なのは自分ではなかった。冴は浮かんだ言葉を、しかし告げることができなかった。言葉にしてしまえば、本当に終わってしまいそうな気がしたのだ。
 自分自身が抱く凪への思いが、本当に終わってしまいそうで。
『私は、凪の幸せのために今ここにいるんです。凪が幸せになるには、貴女が必要だから……』
 絞り出すような、声。かすかに震えている。
「……それは、凪がそう言ったの?」
『はい……』
 沈黙が流れた。更は複雑そうな表情を浮かべている。
 凪は確かに言った。自分が必要なのは更だけだと。だからこそ、冴は犠牲になることを選んだ。
「そう。凪がそんなことを。だったら、なおさら私は戻れない」
 哀しそうに笑う。なぜ、と冴は思った。更も凪を想っているのではないのか? どうして、喜ばないのか。冴には解らなかった。
『どうして?』
 なぜだろうか。こんなにも悔しいと思うのは。
「どうして、か……その答えを、今から貴女に見せてあげる。もとよりそのために、ここに引き止めたのだから」
「え……?」
 問う時間もなかった。更は静かに両手を広げ―――――
 世界が、暗転した。



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