V





 それは月も出ていない、星の瞬きも遠い、暗く静かな夜だった。
 まるで凪のような静けさに、身震いするほど。
 少年は心細さと空腹を抱え、一人路地裏の隅に縮こまっていた。いくら昼間が温かくとも、夜はやはり冷え込む。
 薄汚れた格好をした少年に、保護者は居ない。望まれてはいなかった。だから、売り飛ばされた。
 そのときの記憶は、今も鮮明に覚えている。切り捨てられた自分の存在理由。
 いらないのだと、言葉なく突きつけられた冷酷さ。売り飛ばされた先で、地獄のような数年を過ごし、徐々に心を失っていった。
 この醜く薄汚れた世界で、踏み躙られながら生きて、そして気が付けば買主は死んでいた。
 殺した、とも表現できる。
「……っ」
 諦めていることなのに、何故だか酷く哀しい。少年は溢れそうになる涙を拭った。けれど、止まらない。
 今頃になって、命の重みを実感していた。
 殺される前に、殺した。そうしなければ、自分が死んでいた……
「どうしたの?」
 そんな時だった。こんな夜更けに人がいることにも驚いたが、顔を上げた先にいた人物の身なりにも驚いた。
 どう見たって、こんな路地裏とは一生縁のなさそうな、立派なドレスに包まれた貴婦人がそこにいたのだ。
 それは少年の目には眩しく、そして美しく映った。
「こんな所で一人泣いているなんて、何かあったのでしょう? 子供が独りで泣くものじゃないわ」
 美しい黒の長い髪。闇に溶けてしまいそうな黒の瞳。
 月明かりも星明りもないのに、なぜか色の識別ができるほど、その女性は輝いて見えた。彼女はドレスの裾が汚れるのも構わず、少年の前に膝をおり、涙をそっと拭う。
「私も丁度、独りなの。だから、泣くなら一緒に泣きましょう?」
 そして、少年を抱きしめる。
 その温もりに、彼は涙を堪えるのを止めた。しがみつき、縋りついて、二人は泣いた。

 それは、少年にとっての始まりだった。
 彼が、四大貴族の一つ、リラーゼ家に引き取られるのに、時間はかからなかった。

 その少年の名は、凪。
 凪の夜に拾われた少年。
 凪・リラーゼ。





 四つの大陸にはそれぞれを納める大貴族が存在する。一つの大陸に一大貴族。計四大貴族。
 それぞれの大陸の長ともいえるその貴族の一つ、東の大陸を納めるリラーゼ家当主には、子息がいなかった。
 リラーゼ家当主の妻、麟(りん)は体が弱く、子どもは産めないと医者に宣告された身のため、兼ねてより養子を取ることを考えていた。
「凪。私の可愛い凪」
 透き通るような声で呼ばれ、少年はすぐさま顔をあげた。
 床に寝そべって絵を描いていたところを、ソファから見守っていた母親に手招きされ、彼女の方へ凪は駆け寄る。
「どうしたのですか? 母さま」
「もっと近くでお顔を見せて頂戴? 私の可愛い凪」
 麟は凪の頬に触れ、にこりと微笑む。美しい女性だ。
 そしてどこか儚い。体が弱いためか、もともと白い肌がさらに正気をなくした蒼白さで、その儚さは一層強い。
「あなたは私の息子ですもの。可愛くて仕方がないのです。ずっと凪を見ていたいの。それは、凪も同じでしょう?」
「はい、母さま」
 問いかけに、即座に頷く。
 麟は異常なほど凪を可愛がっていた。凪も、麟を慕っている。唯一自分を救い、愛してくれるこの存在を、少年は愛していた。
 何を迷うことなく。
「僕は、ずっと母さまの傍にいます」
 お決まりの台詞を言うと、麟は花が咲いたような笑顔を見せる。凪はその笑顔がとても好きだった。誰よりも美しい、その笑みが。
「約束ですよ。貴方は私を裏切らないで。ずっと私だけのものでいて」
 強く抱きしめられたその腕に、さらに力がこもる。少し苦しかったけれど、凪は耐えた。答えるように、母を抱きしめ返す。
 その時の凪には、麟の言っていることがよく解っていなかった。
 裏切るな。傍にいろ。
 それは呪縛。束縛。独占。
 その言葉の裏に隠された本心を、幼い少年が察することなどできはしない。
 ただ黙って頷く他、少年に選択肢はないのだから。


*****


 それは、書庫から本を取りに行った帰りだった。
 母の待つ部屋へ戻ろうと廊下を歩いていると、目前を父が横切るのが見えた。彼の方は凪に気付かなかったのか、そのまま過ぎ去っていく。
 凪は父の向かった方に首をかしげた。
 あの方向は、西棟の別館へ続く扉があるだけだ。そこは、以前から母親に絶対に近づくなと言われている場所でもあった。

『あの別館には魔女が住んでいるの。醜い魔女が。だから、決して入ることはできません』

 と、半ば脅しをかけるような物言いで、しかし必死の訴えで、麟は凪を遠ざけようとしていた。
 魔女とはどんなものか実際に見たことはないが、物語などに出てくる魔女は体外醜い老婆であったために、凪も恐ろしくて近寄ろうとはしなかった。
 そんな場所へ、父が向かう理由が見当たらない。凪は父が魔女に何かされてはいけないと、とっさに追いかけた。
 別館の扉の前で、ドアノブに手をかけている父の後ろ姿に叫ぶ。
「父さまっ!!」
 父の肩が一瞬揺れた。振り返ったその目と合った瞬間、凪は動きを止める。
「……お前か」
 感情のこもらない声で、父親が零す。その表情は酷く冷たい。
 驚いたわけでもなく、怯むわけでもなく、ただバツが悪そうに舌打ちをこぼした父に凪はそれ以上近づけなかった。
「父さま……そこは近づいちゃいけないって、母さまが。魔女がいるんです」
 それでも、父を危ない目に合わせるわけにはいかない。凪は震える声で訴えた。
 その幼い子どもが示した言葉に、彼は柳眉を寄せる。
「魔女? それなら、あの女の方がよっぽど魔女だろう」
 『あの女』が誰のことかは、すぐに分かった。父と母は仲が悪い。凪を引き取る前から拗れてはいたようだが、凪を引き取った後はそれに火をつけたように仲違いする様子が多々見れた。
 自分のせいでお互いが喚きあう姿を見るのは、子ども心に苦しく、けれどほかに居場所もないため、凪は麟にすがる以外方法を見つけられないでいた。
 父はあからさまに凪を疎んでいた。
 母は何時でも凪に優しかった。凪がどちらにつくかなんて、わかりきっている。
「父さま! 母さまは……っ!」
「お前は知らないんだ。あの女がどれ程醜悪で残酷か」
 しかし父の口から出た言葉は、ばっさりと凪を切り落とす。その非情なまでの物言いは、容赦なく凪を絶望へと突き落とした。
「そんなこと……っ」
 あの優しい母が、自分を助けてくれた麟が、醜悪で残酷なわけがない。
 恐怖に苛まれながら眠れない夜を過ごしていた凪を抱きしめ、そして救ってくれた麟。
 いつだって優しい笑みを向けてくれる、愛していると囁いてくれる母。美しく、儚い麟が、醜悪などと言える父の方が醜悪だ。
 凪は食い下がった。
 認めない。絶対に。
「お前は何も解っていない。あれは自分を守るためなら、幼い子供にさえ手をかける女だぞ。見境なく捲し立て、自分が中心でなければ許せない、狂気に満ちた、それこそ魔女だ」
 幼い子供にさえ手をかける―――――それはおそらく比喩なのだろうが、凪は思わず怯んだ。
 あまりの父の形相に、それ以上返す言葉が出てこない。
 心の中で、でも……と零し、けれど凪はそれ以上食ってかかることをやめた。父への怒りは収まらないが、それ以上口論しても、おそらく凪に勝ち目はない。
 こういう時、『子ども』は『大人』に勝てない。どんなに不条理であろうとも。
 凪は唇をかみしめ、拳を握り締める。
「……まぁ、いい。いずれ解ることだ」
 勝ち目がないと悟った息子に、父は肩をすくめた。少し大人気なかったか。
「そろそろ戻らないと不味いんじゃないのか。あれを待たせるとヒステリーだけでは済まんぞ。さっさと行け」
 指摘され、凪の顔が蒼白になった。
 母を待たせていることを思い出す。確かに、彼女は嘘をつかれたり待たされたりすると機嫌が悪くなる。凪は慌てて踵を返した。
「凪」
 走り出そうとした矢先、後ろで呼び止められる。凪は慌てた様子で振り返り、父を見上げた。
「麟じゃないが、お前はここへは入るなよ。個人的にも、私の『小さな魔女』に関わられるのは気に食わない」
 一方的にのしつけると、彼はそのまま来た道を戻って行った。
 残された凪は、父の言葉を懸命に理解しようとする。
入るなよ、と脅した父。
入れない、と告げた母。
それは、似た意味を含んではいるが全く違う。
「……入れるの?」
 入れないは、入りたくても入れない。入るなよ、は入れるけど入ってはいけない。
 前者になくて後者にあるもの。
 それは可能性という名の好奇心。
 入れる場所を我慢する。好奇心と戦って、自分を抑える。言いつけを守るか、それとも破って中を見るか。
 子どもにとって、それはとても難しい。
 目の前に気になる箱があるのに、開けてはいけないと言いつけられる。開けると、きっと叱られるのだろう。
 だけど、目先の好奇心と、後からの説教を比較して、子どもが好奇心を抑えられるわけがないのだ。
「父さまの、小さな魔女?」
 そして極めつけは、父が残した最大の謎。

 凪は次第に、扉の向こうにいるという『魔女』に、興味を持ち始めた。



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