04 状況説明





 目の前で湯気を上げながら、カップにお茶が注がれた。
 慣れた手付きで、ロコがお茶の支度をしてくれたのだ。冴はその光景をぼんやりと眺めながら、緊張を解きほぐそうと身体の力を抜いた。
 広がる、甘い香り。
 数分前。
 冴達は、漆黒の青年の案内によってこの大広間に通された。
 無駄に長いテーブルと、装飾の施された豪奢なイス。向かい側に青年とディオール、冴の隣にはロコがそれぞれ腰を降ろしていた。

「改めて、自己紹介しようか」

 それぞれのカップにお茶を注ぎ終わるのを待ってから、ディオールが口を開く。

「僕はディオール・アルバード。ディオ、と呼んでくれて構わないよ。それから、彼女が……」
「ロコよ」

 友好的な二人の笑みに、少しだけ不安が紛れる。
 冴はディオールの視線を追った。

「で、問題の彼が……」
「凪(ナギ)」

 相変わらずの無表情、無口を決め込んでいた青年が、徐に口を開いた。開いたといっても、たったの一言なのだが。彼は、言葉と言うよりも口調が単語だ。要点しか言わない。

「補足すると、フルネームは凪・リラーゼ」

 そんな凪の横で、ディオールが苦笑混じりに付け足した。冴は口の中でその名前を繰り返す。
 凪・リラーゼ。それが、冴を助けた青年の名前。

「あ、私は……冴、といいます」
「冴ちゃんだね」

 名乗ると同時に、俯いた。
 冴には姓がない。今の和に住んでいる者殆どに、姓はなかった。
 姓が在るのは、貴族のような身分の高い人間だけだ。彼らに姓があるということは、冴とは違う、高貴な存在ということになる。
 出で立ちを見れば明らかなことではあったが、改めて突きつけられると、自分が酷く場違いな気がして落ち着かない。
 本来なら、姓を持つ層の人間と口を利く機会などなかっただろう。
 ただただ居心地が悪い。

「冴? 気分でも悪いの?」

 俯いたままの冴を覗きこむようにロコが心配そうな表情を浮かべ、肩に手をのせる。小さな手が、温かい。

「大丈夫……」

 その小さな手をそっと外し、冴はかぶりをふった。こんな幼い少女に心配をかけさせてはいけないと、ぎこちない笑みを浮かべる。ロコはそれで、ホッとしたように胸をなでおろした。

「無理はしないでね? 気分が悪ければちゃんと言うのよ?」
「色々とわからないことがたて続けに起こったせいで、不安定になっているのかもしれないね」

 ディオールの言葉に、冴はハッとした。聞きたいことは山ほどあるのだ。その物問いた気な冴の視線に気づき、彼は悪戯な笑みを浮かべる。

「そんなに焦らなくても、逃げたりしないから。そうだな……まず最初に、僕等のことから説明しようか」

 笑みを絶やさないディオールが、ちらりと凪を垣間見る。すぐに視線を逸らし、今度は冴をまっすぐに見つめた。
 その蒼い瞳が、一瞬揺れる。冴はそれには気づかずに、その飲み込まれるような深い瞳に魅入ってしまっていた。

「僕達は、一般的にいうと人形師なんだ」
「人形師?」
「そう。人形を創ることを生業としてるんだよ」

 ディオールの台詞に、そういえば、とあることを思い出した。目が覚めたときに見た、あのアンティークドールの数。
 正直気持ち悪いと思ってしまうほど細巧に創られた人形達。あれは、おそらく凪が創ったものなのだろう。だからあれだけの数の物が並べられていたのだ。冴は妙に納得する。

「っていうのはまぁ、表向きの、なんだけどね」
「え?」
「……僕達は、普通の人形師とは違うんだよ」

 いくらか低くなった声のトーンに、息を呑む。ディオールから笑顔は消えないが、明らかに目が笑っていない。

「普通の人とは異なった力がある。それは異質であり、この世の理に反するもの……僕達は、この能力ゆえに自分達のことを道魔(ドーマ)と呼んでいる」

 道魔。
 ロコの台詞の中にも出てきたその単語を、冴はすんなり飲み込むことができなかった。
 人の名前、というわけでもなさそうだった。少なくとも、今まで生きてきた中でそんな単語は聞いたことがない。

「道魔……力を持って人形を操る者達。そのドーマが創った人形が、ドールなんだよ」
「そのドールが、ワタクシなの」

 ディオールの言葉を拾って、ロコが補足するように続けた。
 屈託なく広がる笑みは、冴の胸をつく。ロコは自分のことをドールだと躊躇いなく告白した。
 彼女が、人形? 人ではない?
 この自然な笑みを浮かべる少女が?

「人形……なの?」

 恐る恐る紡がれた言葉は、弱々しく空気に溶けた。とてもじゃないが、ロコが人形であるなどとは思えない。人間と何も変わらない、表情もあるし、先程触れた手だって温かった。何より自然な動きをする。
 人形は、独りでには動かない。ましてや、意思を持って喋るなどもっての他だ。

「ええ、元々はそう。でも、魂が入った瞬間から、その衝撃と力の作用によって、人間の身体に限りなく近いものになるの。空腹も感じるから食事もするし、神経があるから痛みも感じるわ」

 ロコの説明を、冴はまるで他人事のように聞いていた。

「冴も、ドールなのよ?」

 その雰囲気が伝わったのか、ロコは確認するように冴に告げる。一瞬何を言われたのか解らずにきょとんとしていたが、すぐにその言葉がじわじわと身体に染み込んでいった。

(私が、人形?)

 冴は咄嗟に自分の掌を見つめた。肌の質感は人間であった時と何も変わらない。どちらかというと、今の方がより人間らしい滑らかな肌をしていた。
 これが、人形?
 不安が覗いた。

「これこそが、異端」

 冴の心情を察したかのように、ディオールが抑揚のない声音で紡ぐ。彼の言わんとすることが理解できないまま、静かに息を呑んだ。

「さっきも言ったね。僕達は人とは異なった力があると。それは、この世の理に反する……魂を掌握し、人形の肉体をも変貌させてしまう力」
「魂の、掌握?」

 無意識に繰り返した言葉が、腑に落ちない。それがどういうことであるのか、やっぱり解らなくて。

「どんな生命体にも、必ず魂が存在する。いうなれば生きるための核ともいえる、生命を維持し、保つためのエネルギー体、と言えば解りやすいかな?  魂は通常、死を持ってしか身体を離れることができないんだけど、僕たちは人が瀕死の状態に陥った場合にのみ、器から魂を引き離すことができるんだ。そういう状況の時、身体に定着する力が弱まって魂はひどく不安定な状態になるから。逆を言えば、健全な人の魂を抜き取ることは不可能ってことなんだけどね」

 思考が追い付かない。冴は反応すことも忘れ、ディオールの説明を頭の中で何度も反芻した。
 人の魂を掌握する力。そんなことが、本当にできるというのか。
 信じられない。信憑性がなさすぎるし、非現実的すぎる。

「信じられないだろうね。でも、冴ちゃんの身に起こったのは、まさにこれなんだ……瀕死の状態に陥った覚えがあるだろう?」

 問われ、固まっていた冴の表情が崩れた。
 忘れられるはずがない。母親に刺され、死の淵を漂っていたあの瞬間を。
 苦しくて、痛くて、でも死にきれなくて……死にたくなくて必死に抗っていたあの記憶を。
 きっと一生、忘れることなんてできない。

「その時に、凪が冴ちゃんの身体から魂だけを抜き取ったんだよ」

 言いながら、ディオールが向けた視線の先を追う。凪の冷たい視線とかちあって、冴は無意識に肩を揺らした。
 怖い、と思ってしまう。

「冴ちゃんの魂を、今のその身体、つまり人形に移し替えることで、君は新しい身体を得た、ということになる」
「あ……」

 さらりと何事もなく言い放ったディオールに、冴はそれで、と納得した。だから鏡に映った顔は自分のものではなく、別の女のものになっていたのだ。
 これでディオールの話を疑うわけにはいかなくなった。
 疑えない。だって、全ての辻褄があってしまうから。
 突然容姿が変貌したことも、受けた傷がないことも。自分が人形である事実はまだ上手く飲み込めないし、信じ難い。けれど、繋がっていく現状に小さな安堵を覚えたのも事実だった。
 しかしそれも束の間、冴は一つの疑問に行きつく。今の自分の身体が人形だというのなら、それでは一体、元の身体はどうなったというのか……
 厭な考えが体内を駆け巡った。

「私……私の身体は?」

 尋ねると、ディオールの表情が曇った。逡巡するようにしばらく沈黙し、ゆっくりと口を開く。

「……冴ちゃんの身体は、極論をいえば、死んだ、ということになるね」

 彼の発した単語が瞬間、冴を貫いた。

(死んだ……?)

 その途端、冴の中でとぐろを巻いていた不安が、ゆっくりと浮上し、襲い掛かってくる。眩暈がして、酷い吐き気に襲われた。
 死んだ。自分の身体は、もうない?
 けれど、意識はある。今自分は、生きている。
 何たる矛盾。
 身体は死んでいるのに、もうないのに、記憶も、意識も、生きているという実感すらもある、この状態。

「嘘……」

 身体が無意識に震えた。冴は自分を抱きしめるように身を屈める。
 急に自分の存在が不確かなものに思えた。魂だけが残り、器は全く別のもの。

(私は、本当に冴なの? 本当に、生きているの?)

 それは果たして冴と呼べるのだろうか。
 意識や記憶は冴のものでも、それと同じように成長してきた体は死んでいる。
 震える腕に力を込めた。

(……寒い)

「ディオ! もう少し考えてものを言いなさいな! 直球過ぎるわっ」

 ロコが今にも崩れそうな冴の身体を支え、ディオールを一喝する。優しく背中をさすりながら大丈夫よ、と声を掛け続けた。
 背中に温かい熱を感じ、けれど今の冴には、ロコに気を回せるだけの余裕がなかった。自分を抱く腕の力を緩め、ゆっくりと息を吐き出すと、座っているイスに背中を押しあて、後ろへ項垂れた。
 手足に力が入らず、だらりと降ろした状態のまま。
 天井に飾られたシャンデリアの何と豪華なことか。灯る光が、容赦なく視界を突き刺す。冴はそのまま瞳を閉じた。
 暗転する意識の中、それを手放さないように必死で奥歯を噛む。

「……冴」

 トーンの高い澄んだ声が、遠慮がちに掛けられる。けれど、それに反応することさえできない。
 解らないことだらけだったものが一度にばらけ、そこに受け入れられない事実が圧し掛かり、冴を押しつぶそうとしていた。酷い圧迫感に、彼女は低く呻く。

「だから、言っただろう」

 まるで心配する様子もなく、凪の声が静まり返った空間を引き裂いた。冴は弾かれるように身体を浮かし、イスから背中を離して視線を頭上から目前に移動させる。
 気持ちの悪さよりも、何故か凪の存在の方が冴には大きかった。視線が交錯する。
 その、冷ややかな瞳。

「お前は元の生活には戻れない、と」

 嘲笑うような口調。
 部屋に案内された時に言われた記憶が蘇る。その時は意味が分からなかった。
 あれは、皮肉だったのか。冴は言葉を失った。

「全てお前が望んだことだ」

 まるで自身に非は無いかのような淡々とした物言い。冴はその言葉を受け入れられず、口の中で持て余した。

(私が、望んだこと?)

 確かに冴は、死にたくなかった。
 あの時、助けてくれるという凪の言葉に自ら縋った。でもそれは、こんなことになるだなんて思ってもみなかったからだ。
 そう。あの時冴は何も知らなかった。
 凪が道魔であること。人の魂を扱い、人形に移し替えることができること。そして、自分の身体から魂が切り離されることも、全部、冴は何も知らなかった。
 だから、凪の手を取ったのだ。

「私は……」

 言いかけて、言葉を飲み込む。
 助けてもらっておいて、非難の言葉を向けるには、あまりにも恩知らずというものだ。さすがの冴にもそれは理解できた。
 言葉がない。

「ちょっと!! お言葉ですけど凪・リラーゼ! 何の説明もしなかったことは棚に上げてその言い草は何ですの!? 冴に選択肢なんてなかったも同然だわ!」

 ことの成り行きを見守っていたロコが、もう我慢の限界だといいたげな表情を浮かべながら、凪を睨みつけた。冴を庇うように、勢いよく立ち上がる。
 対峙する二人。しばらく睨みあって、ディオールが溜息混じりに仲介に入った。

「まぁまぁ、二人とも。今は喧嘩してる場合じゃないだろう」

 しかし、その呆れを含ませた一言が、ロコの怒りの矛先を受けることになる。

「ディオっ。大体貴方も、配慮というものが足りないのだわ! 貴方達には、ワタクシ達ドールの気持ちなんて解らないでしょうけど、自分の肉体がすでに存在してないということは本当にショックなことなのよ!?  そんなことすぐに受け入れられるわけがないでしょう!」
「え、僕にもお怒りなの?」
「あたりまえでしょう! もともとはディオが直球すぎたのが原因なのだから! デリカシーって言葉をしらないの!?」
「うわぁ、あんまりな言い草だなぁ」
「おだまりなさいなっ! そういわれて当然のことをやっているのじゃない、貴方達は!」
「うーん、配慮の話になるとなんともいい返せないけど。でも、少なくとも僕らの力のおかげでロコも冴ちゃんもこうして生きながらえているっていうのは事実だよ?」

 責めるような口調ではなく、ディオールはただやんわりと、まるで他人事のようにロコを宥める。言われ、痛いところを突かれたロコはぐっと言葉を飲み込んだ。

「それは……そうだけれど」
「でもまぁ、一度に極論を話しすぎたっていう点は否めないかな。確かに配慮が足りなかったね」

 苦笑を浮かべ、ディオールは徐に腰を上げた。カツカツと靴音を響かせながら、冴の隣まで移動する。緩慢な動作で彼女の顎を捉えると、自分の方へ引き寄せた。
 冴は突然のことに目を見開く。されるがまま、目前に彼の顔が近づいた。飲み込まれるような蒼の瞳。今にも吸い込まれそうなその深さに、無意識に呼吸を止めていた。

「綺麗な瞳だ。もとが創りものとは思えないな」

 言いながら、ディオールはもう片方の手で冴の視界を遮った。急に迫った掌に、思わず瞼を閉じたその途端―――じんわりと温かいものが身体の中に流れ込んでくる。
 どこか懐かしさを感じさせる、安堵するようなそれは体中を駆け巡り、冴の中でとぐろを巻いていた澱みを流していった。急に身体が軽くなる。

「これで少しは楽になったかな?」

 急に視界が開けて、冴は眩しさに目を細める。ディオールの手が離れたらしく、瞬きしながら視線を上げると、間近に彼の微笑があった。
 瞬間、心臓が跳ね上がる。

「あ、ありがとう……」
「どういたしまして」

 視線をそらしながら、高鳴る心臓を沈めるために必死で深呼吸を繰り返した。

「本当は凪がするのが一番効果的なんだけどね。頼むだけ無駄になりそうだったから」

 ディオールの気配が離れ、声もどこか遠くなる。視線を戻すと、彼は自分の席に戻っていた。

「今のは治療みたいなものなのよ。基本的にドールには、病や怪我といった類の現象は起きないの。もちろん、全く怪我をしないというわけではないわ。 ただ、著しく自然治癒能力が向上して、怪我をしてもすぐに治ってしまうの。でも、精神的なダメージは自然治癒に長けていようが意味がないから、そういう時は、ドーマが負担を取り除いてくれるのよ」
「自然治癒の……向上?」
「ドールの身体は人間と限りなく変わらないといったね。けれど二つ、大きく異なる点がある。並外れた自然治癒能力と、獣並みの運動能力の高さ。ドールは怪我をしても、寸分違わずすぐに元の状態に戻る。かすり傷程度なら瞬きするほどの間にね」

 それを証明するかのように、ロコが徐に自分の掌を冴の前に突き出し、空になったカップを割った破片で、自分の指を掠めた。
 切られた場所からじんわりと血が滲んだが、けれど瞬きする間にそれは消えていた。
 吸い込まれるように鮮血が消え、傷口が塞がっている。時間が巻き戻されたかのように、傷跡さえ残っていなかった。

「さすがに致命傷ともいえる傷になるとこうはいかないけど、それでも一日もあれば元通りになるよ」

 追い討ちをかけるように、ディオールがさらりと告げる。ロコもそれに同意するように頷いていた。
 しかし、冴はたった今見た光景に衝撃を受け、反応すらできない。あんなにも何事もなかったかのように傷が瞬時に治ってしまうなんて。

「あんまり一度に説明しても、余計混乱を招くだけだろうし、今日はとりあえずこの辺にしておこうか」

 冴の反応が時を刻むごとに薄くなっていくのに気がついていたディオールは、労わるように微笑む。話の区切りに小さく安堵を漏らすと、肩の力を抜いた。
 正直、限界を超えていた。半分以上説明が理解できず、頭の中は混乱して理解したものまで解らない状態になっていたのだ。冴には、少しゆっくりと話をまとめるだけの時間が欲しい。

「当分ここに厄介になるつもりだから、解らないことはいつでも教えてあげるからね」

 にこやかな笑みを浮かべて、ディオールは当然のように告げた。しかし、それに反応したのは、冴ではなく凪だった。あからさまに不快な表情を浮かべ、ディオールを睨みつける。
 一触即発な雰囲気に、冴は無意識に身を縮めた。ロコは呆れた様に肩をすくめている。

「帰れ」
「それは聞き入れられないな。案の定、君は冴ちゃんに説明の一言もなかったみたいだし。ドールが見たかったというのもあるけど、ここまでわざわざ足を運んだ理由は、その状況を想定したからだ」
「余計なことだ」
「心外だな。君は僕のおかげで説明する手間が省けたんじゃないかな? 感謝されても邪険に扱われる覚えはないんだけど」

 あくまで不機嫌、あくまで笑顔の二人は、ただならぬ圧力を放ちながら対峙する。お互いに引く気配はない。

「ワタクシも今回はディオの意見に賛成だわ。冴がいなければこんなところに長居は無用だけれど、冴一人を置いて帰るのは忍びないもの。  特に、貴方のようなドーマの傍で、まだ状況も飲み込めてない状態なら尚更。それこそ、貴方がきちんと冴に説明するというのなら問題はないですけれど? どうせ放ったままなのでしょう」

 いかが? とロコに指摘され、凪は柳眉を寄せた。大半が図星なだけに、反論できない。
 やがて根負けしたように、荒く立ち上がった。

「勝手にしろ」

 言い放つと、凪は部屋から出て行く。冴はそれにつられるように席を立つと、彼の後を慌てて追った。
 重たい扉をこじ開け広い回廊に出ると、随分先に進んだ場所に凪はいた。歩く速度が早いのか、距離は一向に開くばかりだ。自然、駆け足になる。

「待って……っ」

 全速力で走り、息を切らせた状態の冴が凪の衣服を掴んだ。その途端、勢いよく振り払われる。
 冴は呆然として、振り払われた自分の手を見つめた。

「何だ」

 不機嫌な声で、我に返る。顔を上げると、予想通りの表情があって、冴は身体を強張らせた。
 特に用件があったわけではない。状況だって把握できてないし、人のことを気にしている余裕だってない。それでも咄嗟に凪を追ったのは、放っておけなかったから。
 いや、放っておいてはいけない気がしたのだ。

「あ、えっと……お礼を言いたくて。助けてもらったことの……」

 取り繕ったような理由に、おかしなものでも見るように凪は冷たく皮肉めいた。

「ショックを受けていたようだが?」
「それは……」
「心にもないことを言うな。不愉快だ」

 窘められて、固まった。言葉がでない。
 一蹴されて沈黙する冴を残したまま、凪は踵をかえす。姿が見えなくなっても、冴はしばらくその場から動くことができなかった。
 掌に力がこもる。
 最初から、なんとなく感じていた。

(私、凪に嫌われている……?)

 それがはっきりと受け取れて、酷く哀しかった。別に他人にどう思われようと、それほど気にしない方だ。というか、今までは気にする余裕もなかった。
 それなのに、凪に嫌われてしまうのは、なぜか酷く辛く、哀しい。胸の奥が疼くような、持続する痛みを伴う。
 先ほど会ったばかりなのに。凪のことなど何も知らないのに。
 きっと、ディオールやロコに嫌われても、ここまで苦しいと思うことはないだろう。
 それは異性へ向ける愛とか恋とかの類ではなく、あえて言うなら、母親に見捨てられた時のような状況に酷似していた。
 まるであの、母親に殺されかけた時のような、諦めにも似た切なさが込み上げてくる。
 冴は締め付けられる思いを振り払うように、頭をふった。溢れそうになる涙を噛み殺す。
 少しずつ身体が動くのを確かめてから、ゆっくりと来た道を戻った。






BACK   TOP   NEXT