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 静まり返る空間で、青年は一人、壁に背中を預けて書物を読んでいた。
 端整な顔のおかげで、その姿は何とも絵になる。
 扉を開けた瞬間、正面に彼の姿があり、僅かに肩を揺らしてしまった冴は、体の動きとは反対に視線が彼に釘付けになってしまっていた。
 不意に視線を上げた青年と目が合い、慌てて視線を外す。冴の姿を認めると、彼は読んでいた本を閉じた。
「行くぞ」
 青年は緩慢な動きで壁から背を離すと、ついてくるように視線で促す。冴は慌てて彼の後を追った。
 しばらく歩いているうちに、冴は何度か感嘆の息を漏らす。廊下を歩く間中、彼女はずっと落ち着きなくキョロキョロと辺りを見渡していた。
 おそらく、建物自体が巨大なのだろう。今だかつて見たことのないほど、廊下は広く長い。中央に敷かれた柔らかな絨毯。間隔的に設置されたアンティーク調の置物。天井につるされたシャンデリア。 それら全てが品よくそれぞれの存在を際立たせている。この大陸の調度品ではないものばかりが、この屋敷にはあった。
 そのあまりの美しさに見とれてしまったほどだ。嫌でも視線がそれらを捉えてしまう。
 けれど冴は、そのことに対して疑問を抱いた。
 この東の大陸に、今人がまともに住める場所は限られている。殆どの街は荒廃し、井戸は枯れ、砂漠と化しているのだから。荒野ばかりが続くこの世界で、これだけの土地と建物を維持できるだけの環境はないはずだ。
 冴は少なからず、不安を覚える。無意識に口が開いていた。
「あの……ここ、どこですか?」
 先ほどから疑問に思っていたことの一つを、遠慮がちに尋ねてみる。その問いに、青年はちらりと彼女を一瞥した。
「和」
 短く応えて、青年は視線を外した。冴はその答えに、嘆息する。
 そうではない。そういうことが聞きたかったのではなかった。もちろん、東の大陸であるのか一瞬疑ったりもしたが、窓の外に広がる閑散とした風景を見れば、ここが東の大陸であることはすぐに理解できる。
 だから冴は、この場所が、この屋敷が何なのか、和のどの辺りに位置するのかを知りたくて、さっきの質問をしたのだ。
「和の、どの辺りですか?」
「……」
 青年は、答えない。
 視線すらも、今度は向けてこなかった。
 沈黙が流れる。冴の中に着実に生まれでてくる不安が、執着なほどに纏わりつく。
「あの、私……」
 沈黙と不安に耐えられず、再び口を開いた瞬間、思い切り睨まれた。冴はビクリと肩を震わせ、途中で言葉を止める。青年の目が、黙れ、と語っていた。
 冴はしかたなく口を閉ざす。俯いて、長い廊下を歩き続けた。
 どこへ行くのだろう。なぜこんなに、広いのだろう。
 自分は、今どこにいるのだろう……この身体は、なんなのだろう。様々な思考が冴を取り巻く。
 不安、不理解、異質、異様……
「入れ」
 次第に遠のきそうになってきた意識を現実に引き戻したのは、青年の凛とした声だった。冴は不安を取り払うように頭をふり、視線を上げる。
 見れば、一つの部屋の扉を開けて、先に入るように青年が促している。冴はそれに従うように、部屋の中へ足を踏み入れた。
 入った瞬間、絶句する。
 四方をカーテンで囲んだ、天蓋付きの大きなベッド。大きな窓ガラス。座り心地のよさそうなソファに、踏めば沈む絨毯。
 淡いワインレッドを基調として統一された部屋が、目前に広がっていた。
 始めて見る、光景。
「お前の部屋だ。自由に使え」
「え?」
 後に続くように部屋に入ってきた青年が、さも当たり前のような口調で告げたのを、冴は一瞬、幻聴かと思った。それとも、からかっているのか、と。
「バスルームもトイレも部屋についている。必要なものがあれば言え」
 簡単な説明を終えると、彼は部屋からでて行こうとする。冴はそれを見て、慌てて声を張り上げた。
「あ、あのっ……!」
 冴の引き留めに、青年は面倒くさそうに振り向く。
「何だ」
「どうして……?」
 どうして、自分がこの部屋を与えられたのか。彼の態度からして、どうやらからかっているのではないと解ったが、それでも理由がわからない。
「言っただろう。助けると」
 青年はまっすぐに冴を射抜く。そこには同情でもなく、偽善でもなく、義務だけがあった。
 助けると言った手前、それをちゃんと果たすための義務。冴はそれを感じ取って、息を飲む。なぜそこまでするのか解らない。
「それとも、戻る場所があるのか?」
 彼の問いに、言葉が詰まる。
 彼女には、もう帰る場所などない。
 冴は、母親に殺された。捻じ曲がった愛情をぶつけられ、死の淵を漂っていた。
 あの女は、狂っていた……
「どちらにしても、お前はもう、元の生活には戻れない」
「え?」
 感情のこもらない声。その台詞に、冴は青年の瞳を覗き込む。何を言われたのか、理解できなくて。
「何かあれば呼べ」
 しかし彼は、それ以上の言葉を告げることはなく、ドアの向こうへ姿を消した。
 冴はそれを見つめ、ただ呆然と立ちつくす。今度は引き止めることもできなかった。
 結局、知りたいことは何一つ聞けなかった。
 突然自分の姿が変わってしまった事実、名も知らない青年の正体と、今までの生活には戻れないという彼の発言も。
 ただ、ここが『居場所』だといこと以外、冴に解ることは何一つなかった。
 一度に理解できないことが起こりすぎて、上手く整理ができない。考えようとすれば、混乱するばかりだ。
 冴は、柔らかい絨毯の上にへたり込む。脱力感が冴を襲った。
 一人で使うには、あまりにも広すぎる部屋。
 あまりにも、今までの生活とはかけ離れた現実。
 冴は大きな窓の外に広がる、閑散とした空を見上げた。



 そこには、鳥の姿など一羽もなかった……






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