05 現実逃避という名の状況整理





 自室に戻るなり、凪は思い切りテーブルを叩きつけた。鈍い音が辺りに響いて、かすかな余韻を残して消える。
 酷い形相で虚空を睨みつけ、彼は力任せにテーブルを薙ぎ払った。ばさばさと乾いた音を立てて、卓上にあった紙が舞いながら床に落ちる。
 苛立ちを隠そうともせず、凪は倒れたテーブルに視線を移すと、柳眉を寄せながらかき乱された内面を覆い隠そうと試みた。けれど、なぜか上手くいかない。
 それが益々凪を苛立たせ、動揺させる。


『お礼を言いたくて……』


 躊躇いがちに紡がれた言葉が甦る。
 不安げな瞳を向けて凪を見上げる少女の顔は、別の、けれど同じ少女の顔を浮かび上がらせた。
 途端、身体に走った痺れに凪は顔を顰める。びりびりと肌を刺すような痛み。それは思いのほか長く持続し、酷い不快感を与えた。


――――――どうして私をドールにしたの……?


 まるでそう言われ、責められているようだった。
 咄嗟に口元を押さえる。喉を這い上がってくるような吐き気。崩れるように膝をおり、前屈みになると片手を床につけて身体のバランスを取った。立っていられないほど、景色が揺れる。
 平衡器官が正常に機能していなかった。

「くそっ……」

 じっとりと厭な汗が頬を伝い、苦しそうに喘ぐ。
 凪はそのまま壁まで這いずって行くと、そこに背中をあずけてゆっくりと息を吐き出した。
 身体に力が入らない。
 厭なものを振り払うように頭を振り、凪はそのまま全てを投げ出すように目を閉じた。



*****



「気にすることないよ、冴ちゃん」

 肩を落として戻ってきた冴に、慰めるような言葉を掛けたディオールは、あくまで優しく自然に彼女をイスに座らせた。ロコがすかさず新しいお茶を用意する。目の前に湯気を上げた温かい紅茶が差し出され、冴は弱々しくもそのカップを受け取った。

「凪は誰にでもああなんだ。随分長いつき合いになるけど、未だ僕にもそっけない態度だよ」
「彼に愛想なんてものはないのだわ。だからワタクシはここのドーマが一番嫌いなのよ」

 悪びれた様子もなく、ロコは紅茶を一口すする。ディオールはそれに苦笑を浮かべつつ、冴の前に膝を折った。
 目線の高さが近くなり、また顔の距離も近くなり、冴は瞬間硬直した。呑まれるような蒼の瞳。優しい眼差しが迫り、煩いほど心臓が激しく脈を打つ。

「大丈夫。凪はあんな態度だけど、悪い人間じゃない。ただ少し不器用なだけなんだ」

 冴は素直に頷いて見せたが、それが慰めだということも理解していた。
 凪のあれは、不器用という言葉では片付けられないほど冷徹なものだった。自分を見下ろす瞳に感情はなく、言葉にもそれは含まれていない。
 ただ、疎むような、酷くいえば憎まれているような気さえした。
 邪魔に思われていると感じ取って、冴は彼の矛盾に頭を悩ませる。あんな素っ気無い態度をとって、しかも自分のことを憎んでいるようにも思えるのに、なぜ助けたりしたのだろうか。
 凪の言動はまるで咬み合っていないのだ。

「冴ちゃん。今はあまり考えすぎない方がいい。君はどうも考え込んでしまう癖があるようだね」

 苦笑を浮かべたまま、ディオールはやれやれといった感じで肩を竦めた。どんな時でも優しさが滲み出ている彼の存在は、冴にとって、唯一の拠り所になりつつある。
 彼やロコがいるから、まだ冴は正気を保っていることができた。

「そんなに思いつめていても身体に毒なだけよ? ねぇ、少し気分転換に探検しましょう!」
「それは名案だね。この屋敷の中を色々と見て回るといいよ。ここはもう、冴ちゃんの家でもあるんだから」

 自分の家。その単語に、冴はじんわりと胸に広がる温かさを感じた。
 新しい、居場所。
 少なくとも死に怯えずに暮らせる空間を与えられたことに、冴は僅かな欣幸を抱く。

「ね? いいでしょう? ぼんやりしててもつまらないもの」

 一箇所にとどまるのが苦手なのか、好奇心が旺盛なのか、ロコは今にも駆け出しそうな勢いで冴に迫る。半ば勢いに押されて頷くと、ロコは喜色満面な表情を作った。
 ぐいぐいと冴の腕を引っ張って、重たい扉を片手でいとも簡単に開けると、そのまま引きずるようにして部屋から出ていく。傍から見れば、仲のいい姉妹のようだ。

「うーん。実年齢からいけば随分と奇妙な姉妹ということになるけれどね」

 二人を見送りながら零したディオールの台詞など、当の本人達には届くはずもなかった。





「冴っ、こっちよ!」

 緩く巻かれた髪を揺らし、ロコが回廊を駆ける。終始笑顔の耐えない幼女は、楽しそうにはしゃぎながら冴の腕を引っ張った。

「それにしても、ホントにここは迷路ね。全く景色が同じなんて」

 ロコが目に付いた部屋の扉を開け、中を覗きこみながら呆れたように呟く。

「ロコの家は、違うの?」
「ワタクシの? そうね、ここよりはいくらかマシかも知れないわね」

 言いながら、ロコは表情を不機嫌なものへ変える。

「といっても、あんまり此処と変わらないわ。ドーマの屋敷は、大抵こんな感じだもの。どうも彼らはこういうところには無頓着みたいで、ワタクシがいくらディオに改装を主張しても、面倒だからの一点張りなのよ。ワタクシは、こんな地味な色調じゃなくて、もっと華やかで明るい色が好きなのだけど、落ち着かないから厭だって、ディオったら子どもみたいに駄々をこねるのよ? 仕方ないからいつもワタクシが引くのだけど、まるで子どもよね」

 ロコの文句に、想像が追い付かなかった。
 あのディオールが駄々をこねるところなど想像できないし、あまりしたくない。

「冴には悪いけれど、そんな中でもここが一番最悪ね」

 ぶつぶつと不満を漏らすロコを他所に、冴は全く別のことを考えていた。

「……ドーマって、他にもいるの?」

 先ほどから、ロコの台詞はそう思わせるような言い回しが多い。始めて会った時も、確か女の子のドールは自分だけだった、といっていたのを思い出す。ということは、他にもドールがいるということだ。ドールがいるということは、自ずとドーマもいる、ということになる。

「ええ。ディオと凪・リラーゼ。それから、あと二人ほどね」
「二人……」
「それぞれの大陸に一人ずつ。別に定められたわけじゃないのだけど、ドーマはお互い干渉し合うのを嫌うのよ。ディオはああいう性格だから別格だけれど、ワタクシも他の二人とは殆ど交流がないわ。一回か二回、会った程度なの。それでも、全員のドーマ、ドールと面識があるのは、ディオとワタクシくらいね」

 ロコの説明に、冴は妙に納得する。確かに凪の態度を見る限り、彼は排斥意識が強い。他の二人のドーマを冴は知らないが、何となく、まだ見ぬ彼らも似たような雰囲気を纏っているような気がする。排斥で酷薄。
 それは、異端、という言葉が終始彼らに纏わりついているからなのかもしれない。他とは違うから。皆とは異なるから。だから、誰も寄せ付けない。そんなイメージ。

「ディオが南、凪・リラーゼは東のドーマだから、残りは西と北ね」
「どんな人達なの?」
「西のドーマはいっつもワタクシに突っかかってくる子どもみたいな奴よ! ドールの方は青年の姿をしているのだけど話をしたことはないの。いつもドーマの傍に控えてる従者のような、ちょっと過保護なイメージかしら? 北のドーマに関しては、会ったというより、見た、と言った方が正しいわね。だからワタクシもどんな人物なのかよく知らないのだけど……白い、悪魔みたいな……あ、ドールは幼い少年で、そういえばあの子とも話をしたことがないわね」

 ロコの説明では詳しい人物像は見えてこないが、やはりそれぞれが排斥意識が高いのだろうことは想像できた。どんな人物か尋ねて内面よりも外見の特徴の方が顕著に出ている時点でそんなものだろう。

「まぁでも、他のドーマ達に会うことはないと思うから、気にしなくても大丈夫よ」
「会えないの?」
「あら、会いたかったの? そうねぇ、向こうから出向いてくれれば可能性はあるかもしれないけれど、凪・リラーゼがわざわざ挨拶に出向く様には思えないし、ドーマやドールが世代交代したからと言って、挨拶し合うような風習もないから、無理じゃないかしら?」

 どこまでも軽薄な関係らしい。
 同じ力を持つ者同士、この広い世界に四人しかいない同胞とも言える存在でありながら、お互いに干渉せず淡々と生きていくその有様に、冴はなんだか物悲しい気持ちになる。
 会えれば、色々と聞いてみたいこともあったのだが。

「ロコ」
「なぁに?」
「ロコは……どうしてドールになったの?」

 ドールになる者は、必ず一度生死の境目を彷徨っている。
 冴の場合は何も知らされず結果的にドールになったわけだが、前もって説明を受けて、それでも人であることを捨ててまで生きる道を選ぶというのは、どれほどの状況に置かれていたのだろう。
 気にならないと言ったら嘘になる。ただ、軽々しく聞いていいことでもないだろうと思っていたのに、どうしてか疑問を口にしてしまっていた。

「あ、えっと、ごめんなさい。突然こんなこと……っ」

 自分が何を言ったのか遅れて理解し、冴は慌てて取り繕った。
 ロコは目をぱちくりさせていたが、慌てる冴を見て何か思うところがあったのだろう。ふふっと笑いを零し、遠い昔を懐かしむような表情を浮かべた。

「そうねぇ……正直、説明されてもよくわからなかったというのもあるのだけど、なんだか放っておけなかったのよね。だって、母親と逸れた幼い子ども見たいな顔して、ワタクシを助けたいなんて言うんだもの。多分きっと、お互い寂しくて仕方なかったのね。だから、ワタクシはディオと共に生きようと決めたの」

 歳相応らしくない、その穏やかな笑み。語る言葉は淡々としているのに、自分を悲観している様子は微塵も感じられない。
 ただ、ディオールに対する愛しさのようなものだけが、滲み出ていた。

「冴。ワタクシは、はっきり言えば凪・リラーゼのことは好きじゃないわ。けれど、これだけは言える。ドーマは決して、遊び半分や思い付きでドールを創ったりしない。人の命を扱うということは、決して軽視できることじゃないもの。だから、凪・リラーゼが冴を助けたことにも、それだけの重みと、確かな理由があるのだとワタクシは思っているわ」

 小さな両手が、冴の掌を優しく包む。
 それはまるで母のような。
 温かい眼差し。安堵させるための言葉と、励まし。

「不安なのは解るわ。どうして突然そんなことを聞くのかも。凪・リラーゼでしょう? 彼の態度は冷たいから余計に、冴にはそれが耐えられないのね。仕方ないわ、ドールはドーマが絶対的な存在なのだから」

 冴はロコの台詞に首を傾げる。
 絶対的な存在? 凪の態度が耐えられない?
 確かに冴は、凪に嫌われることを恐れた。そうなれば、大げさに聞こえるが、この世の全てが終わってしまいそうな気がしたのだ。それくらい、苦しくて、哀しくて、耐え難い感情。
 自分だけ取り残されたような孤独感。なぜそんな風に思うのか解らないまま―――――

(そうか、私……二人が羨ましかったんだ)

 凪とディオールを無意識に比べていたのだ。自分のドーマが、ディオールのような人だったらよかったのに、と。
 それを理解した瞬間、酷く自分が恥ずかしく思えた。

「拒絶されるのが平気な人はいないわ。隣の芝生は青く見えるって昔から言うものね。でも大丈夫。今はまだ無理でも、きっと解りあえる日が来るわ。初めは誰とだって上手くいかないものよ? 時がいずれ解決してくれる。だから、大丈夫よ、冴」

 不思議と、ロコの言葉はすんなり受け入れられた。

「それに、ワタクシがいるわ。凪・リラーゼは嫌いだけれど、ワタクシ、冴とは良い関係が築けそうだもの」

 大人びた笑みから、急に歳相応の笑みに変わる。
 屈託ない華やかなそれは、もう、独りではないのだと、怯えることもないのだと、密かに伝えてくれているような気がした。
 母に刺され、命さえ失いかけた少女。
 命の灯火は消えずとも、肉体はない。
 人としての全てを失った、冴。
 それでも、今、人であったときより得たものはきっと大きく、彼女にとってはかけがえのないものだった。

「ありがとう……ロコ」

 頬を伝ったものは生ぬるく、それでも仄かな熱が心地良いと、冴は始めて、心から笑えたような気がした。





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