Y





 冴はしばし放心した後、何かに打たれるように我にかえった。
 厭なものを思い出してしまったと、薄っすらと額に浮かんだ汗を拭い、気持ちを切り替えるために軽く頭をふる。
 今はこうして悲観に耽っている場合ではない。解らないことだらけのこの現状を、一つでも理解しなくては。結局は、自分で答えを見つけるしかないのだ。彼女は決意したように頷き、重たい腰を上げ、立ち上がる。
 ぐるりと部屋を見渡し、改めて部屋の巨大さを思い知ると、冴は嘆息した。
 とりあえず、この部屋にいても埒があかない。恐る恐る部屋の扉に手を掛け、カチリと扉が開く音を背にそのまま部屋を出た。ドアを後ろ手で閉めて左右を確認し、誰もいないことが解ると廊下を小走りする。
 長く、無駄なほどに広い廊下。先ほど辿った道のりが、すでにわからない。どこも同じような景色に見えて、冴はすぐに行き詰る。
 試しに近くの部屋の扉を開けて見たが、自分の部屋とたいして造りが変わらないことだけしか解らなかった。何の手がかりにもならない。
 冴は肩を落とす。
 先ほどの青年は、どこへ行ったのか。何かあったら呼べといっていたが、これではどうにもならない。彼を呼ぶ術がなく、また、呼びに行くことも叶わない。このままでは、先ほどの冴の部屋までも帰れない。
「全く、どこに行ったの? ディオったら!」
 冴が一つ落胆の息を吐き出したその時、曲がり角の向こうで、少女の怒号の声が響いた。冴は人が近くにいることを知り、今度は安堵の息を漏らす。
「大体、真正面から尋ねて行けばいいものを! このように回りくどいことをするから! あぁ、もう! ワタクシを置いていくなんて……信じられないわ!」
 少女の怒声は続いた。かなり腹をたてているらしいその声は、冴の耳をつんざく。それでも冴は無意識に駆けだし、声のする方へ進んだ。
 角を曲がると、そこには一人の幼い少女が廊下の真ん中で地団駄を踏んでいる姿があった。
「見つけたらただではおかないんだから!」
 冴は咄嗟に歩を止める。その殺気だっている少女を、呆気にとられたように見つめるしかできなかった。とてもじゃないが、声を掛けられるような状態ではない。
「だから止そうと言ったのに。ワタクシはドーマの中でもここのドーマが一番……あら?」
 途中で言葉が途切れた。少女が何かに気づいて、ふいに視線を逸らす。冴の方にゆっくりと顔を向け、彼女の存在を認めると、その大きな瞳がさらに大きく見開いた。
「あら、人が?」
 途端に表情が和らぐ様に、冴は息を呑む。まるで、花弁が咲き誇ったような笑顔。純粋で、真っ直ぐで、穢れを知らないかのような。
「丁度よかったわ。貴女ここの住人でしょう? ワタクシを案内してちょうだいな」
 少女は顔を綻ばせたまま、冴の傍に駆け寄ってくる。その歳は、十になったかならないか位。肩の辺りまで伸びた、くるりと巻かれた癖のある髪が、走るたびに揺れる。
 冴は一瞬、反応が遅れた。あんな風に純粋な笑みを向けられたことなど初めてだっただけに、見惚れてしまっていたのだ。駆け寄ってくる少女を前に、無意識に硬直してしまう。
「迷ってしまって、困っていたところなの。よければ案内してほしのだけど」
「え……?」
 まるで予想していなかった台詞に、冴は思わず零していた。
 この目の前にいる幼い少女は、迷っていると冴に告げた。だから、案内して欲しいと。ということは、彼女はここの住人ではないということになる。しかもどうやら少女は冴のことを完全にここの住人だと勘違いしていた。
 それを瞬時に理解して、実は自分も迷っているなどと、口が裂けても言えなかった。先ほど感じた安堵が、溶けるように消えていく。また、胸中を不安がよぎった。
「連れがいたのだけど、はぐれてしまったみたいで。ここの造りはどこも同じようでしょう? もうわけが解らなくて」
 冴はそれに誤魔化すような曖昧な笑みを浮かべた。どうしよう、と焦る。
「あの東のドーマがドールを得たと聞いて、ディオがどうしても見に行きたいと言うものだから……ワタクシは止そうと言ったんだけれど、聞かなくて。そういえば、貴女はもうご覧になったの? ドールを」
「え?」
 屈託ない微笑を浮かべ、とどまるところを知らない少女の滑舌。冴は頭痛を覚えながらも、必死で少女の言葉を拾った。
 彼女の台詞には、冴には理解できない単語がありすぎた。こめかみを揉む。
「あら、貴女知らないの? ここのドーマがドールを完成させたって」
「ドーマ?」
 聞き覚えのない単語だった。首を傾げる。
「ここに住んでいながら、ドーマを知らないの? 貴女、一体どういう……」
 言いかけて、少女は何かに気づいたようにハッと冴の顔を覗きこんだ。背が低いため、爪先立ちでいっぱいいっぱいに背を伸ばしながら。
「貴女もしかしてそのドールじゃない?」
 好機の目が向けられる。
 冴にはもはや何のことだかさっぱりだった。
「そうよ。そうでしょう? 間違いないわっ」
 にこやかに笑って、少女はパンッと手を叩く。その喜びようが、何とも冴には不思議だった。
「女の子なのね! 嬉しいわ。女の子のドールは、ワタクシだけだったから」
 え? と冴が首を傾げる前に、遮るような足音が響いた。
「……何をしている」
 続けて声。二人は咄嗟に振り返る。
 そこには、先ほどの無表情な漆黒の青年と、もう一人別の、人懐こそうな笑顔を浮かべた青年が立っていた。
「ディオ! 貴方今までどこに……っ!」
 漆黒の青年の後ろからひょこりと顔を覗かせていた人物を見つけて、少女が声を張り上げる。その表情は先ほどまでのものとは程遠い、怒りをあらわにしていた。
「やぁ、ロコ。こんなところにいたのか」
「やぁ、じゃないわ! ワタクシがどれほど捜したかっ! 置いていくなんて最低よっ」
 幼女は今にも喰ってかかりそうな勢いで叫ぶ。ディオと呼ばれた青年は、それに苦笑を浮かべた。年の頃は二十歳を過ぎたか過ぎないかくらいで、体格がよく、親しみやすそうな雰囲気を纏っている。髪は光の加減で赤にも見える茶色。瞳は深海のような深い蒼。透き通った美しいその瞳に、冴は吸い込まれるのではないかと錯覚した。
 冴を助けた漆黒の青年もそうだが、彼もまた青年とは違った整った容姿をしていた。
「置いていったわけではないんだよ。気がついたらいつの間にかロコの姿がなかったんだ。でもまぁ、この屋敷内にいることは解っていたし、そのうち見つかるだろうと思って、心配はしてなかったけどね」
「少しは心配なさいなっ! 敵陣で自分のドールが行方不明になったというのに!」
「敵陣、という表現は的確ではないよ? ロコ。僕は彼と敵対してるつもりはないんだから」
「ディオはそうでも、そこのドーマはどうだかっ」
 言い放つ少女は、ギロリと無表情にことの成り行きを見ていた青年を睨む。彼はその視線を受け止めながら、ただ冷ややかな表情だけをくれた。
 冴はその状況に全くついていけず、口を挟むことすらできない。一人焦りを覚え、けれど、どうすることもできずに途方に暮れる。
 先ほどから、ドールだとかドーマだとか、わからない単語に苦悩していた。
「まぁまぁ。落ち着いて、ロコ。それよりも……」
 焦る様子もなく、間延びした口調で幼女を落ち着かせ、青年、ディオは冴に視線を向ける。にこりと、微笑を浮かべながら。その慈しむような視線に、冴は息を呑んだ。
「君が、ドールだね」
 彼は傍まで来ると徐に彼女の腕を取り、手の甲にキスを落とす。その行為に、冴はギクリと肩を振るわせ、見る見るうちに顔が高潮していく。それが挨拶であると理解するまでに、いくらかかかった。
「とりあえず始めまして。今の状況が解らない、という感じだね。うん、ちゃんと説明するから、ここでは何だし、移動しようか」
 ディオは笑みを浮かべたまま、隣にいた青年に視線を投げた。案内してくれ、と目で語る。青年はそれに小さく息を漏らし、踵を返した。展開についていけず、冴は流されるままになっている。
 終始疑問符が飛び交っている冴を促すように、少女が手を引いた。ニコリと微笑む。
 冴はその手に引かれるままに、彼らの後を追った。



BACK   TOP   NEXT