06 初めての労働





 凪の屋敷での生活は、冴の今までの価値観や常識を根底から覆すことばかりだった。
 何もしなくても食糧の確保がされていること。
 雨風が凌げるのはもちろん、硬い地面や寒さに凍えることもなく、温かく柔らかい布団で眠れること。
 そして毎日お風呂に入れることも、何もかもが信じられないことだった。
 今までは飲み水を確保するだけでも大変だったのだ。そんな生活を送っていた冴にはかなり刺激が強すぎる。
 昨日一日、ロコやディオールと一緒に生活しただけで、言いようもない罪悪感や背徳感に苛まれた。

「今日から分担して家事をこなしていきましょう」
「家事?」
「生活するために必要なことよ。料理、洗濯、掃除。そう言ったことをまとめて家事というの」
「家事をこなすのはドールの役目なの?」
「決まっているわけではないけれど、必然的にドーマの世話を焼くのはドール、という流れが一般的かしらね。よっぽどマメだとか、家事が好きだとかいうドーマなら別でしょうけど」
「私、家事なんてしたことないけど……どうすればいいの?」

 食糧すらまともに手に入らず、生活していたスペースも布切れを縫い合わせて作ったテントのような天幕で、着ていた衣服も同じくつぎはぎの襤褸。
 料理も掃除もまともにできる生活ではなかった。定期的に天幕の中に入った砂埃をかき集めて外に出す程度。水も貴重なため、洗濯すら頻繁にはできない。
 たまに降る雨水をため、沐浴と洗濯を一緒に済ませる程度だった。
 だから冴は、ロコが求める家事と言うものがいかなるものなのか想像もできないし、こなせるとも思えなかった。

「その為のワタクシよ。一から教えてあげるわ。そうね、まずは掃除から始めましょうか」
「よろしくお願いします」

 冴は軽く頭を下げる。こうしてロコの指導の下、おそうじ講座が開催された。

「とはいっても、人がいない割には最低限綺麗にされているのよね、このお屋敷」

 ロコが不思議そうに首を傾げる。

「人がいないから汚れないんじゃない?」
「人がいなくても、埃はたまるものよ。このお屋敷、人が生活するスペースはそういった埃っぽさがないのよね。誰か人でも雇っているのかしら」
「……凪が掃除してるんじゃないの?」

 何の疑問もなく答えた冴に、ロコが呼吸を止めた。ありえない、というような表情を向けられる。

「まさか。雑巾をもって掃除してる姿なんて、想像できないわ」
(雑巾……)

 そもそも掃除とはどんなことをするのか想像できない冴には、よくわからなかった。

「まぁ、いいわ。それよりも掃除の仕方を説明するわね。掃除は上から下に、が基本よ。上にある埃を下に落として、最後に床を綺麗にするの。

 例えばこの調度品、これの埃をとって拭きながら、置いてある棚の上、側面を綺麗にしていく。
 それが終わったら次はテーブル、椅子……と部屋にあるものを拭きあげて、最後に床を掃いてから拭き掃除。という流れよ」

 やることが多すぎる。
 一部屋に一体どれだけの時間を費やすことになるのか想像もできない。
 ロコの簡単な説明に冴は絶句した。

「百聞は一見に如かず、ね。時間ももったいないし、やってみましょう」

 手を叩きながらてきぱきと指示を出して行く少女に従い、冴は身体を動かしていく。調度品一式拭くだけで腕が攣りそうだった。
 これを後何部屋分熟せば終わるのだろうか。
 それに、やることは掃除だけではない。加えて料理と洗濯も後に控えている。

「大体やり方は分かったかしら?」
「なんとなくは。この雑巾が汚れたら洗ってまた拭いて、を繰り返せばいいのよね?」
「そうね。今はそれでいいわ。じゃぁ、ワタクシは隣の部屋を片付けてくるから、ここはよろしくね?」
「わかった」

 大変だけれど、慣れればそれほど苦でもない。

(飢える方が、辛いわ)

 それに、磨けば磨くほど綺麗になる結果に、達成感も味わえる。気分もすっきりするし、悪くない。
 案外、こういった作業は彼女に向いているのかもしれなかった。
 あらかた部屋中を拭きあげて、冴は隣で作業をしているロコに次の指示を窺うことにした。

「ロコ、次はどこを掃除すればいい?」

 隣の部屋の扉をあけ、問いかけながら中をのぞくと、そこはもぬけの殻だった。てっきりロコがいるものだと思っていた冴は思わぬ事態に真っ白になる。
 部屋と廊下を交互に見ながら、どうしたものかと頭を回転させた。

「こんなところで何をしている?」
「!?」

 考え込んでいた冴は、突然後ろから声をかけられたことに驚いてビクリと体を震わせた。
 慌てて振り返ると、怪訝そうな表情を浮かべた凪が立っていた。

「あ……えっと、掃除を」

 咄嗟に持っていた雑巾を握り締める。
 冴は特に人見知りというわけでもない。だが、なぜだか凪を前にするとうまく喋れなかった。委縮してしまうのだ。

「できるのか?」
「ロコに教えてもらって、少しは」
「あのドールか……いかにも好きそうなことだな」
「あ、あの、今までは凪が掃除を?」

 冴の問いに、凪は不思議そうな表情を浮かべた。

(初めて表情が変わった……)

 無表情か不機嫌な顔しか見たことがなかった冴は、その変化に少しだけ嬉しくなる。

「生きていくうえで必要なことは一通りできる」

 やはり今までは凪が全ての家事をこなしてきたのだろう。
 掃除がどういったものか理解した今では、確かに彼が雑巾をもって掃除をしている姿など想像したくない。

「大変じゃなかったんですか? 誰かに手伝ってもらうとか……」
「お前以外は邪魔なだけだ」
「私は、邪魔じゃない、ですか?」
「余計な詮索をしなければな」

 凪の言葉は、どうにも矛盾しているように思う。
 必要だからというわりには、近づくなと拒絶する。
 今のは明らかな拒絶だった。これ以上入ってくるな、と壁を突き付けられたような。

「でも、私は凪のことを知りたいです」
「……知ってどうする?」
「仲良く、なりたい……から」

 尻すぼみになりながらも、声を絞り出して答えると、ふっと凪は笑った。
 恐ろしいほど冷たい笑み。
 その笑みに、冴はひやっと背筋が凍るのを感じた。

「器が調子に乗るなよ。お前は何も考えず、ただ俺の傍にいればそれでいい」
「ど、して……」
「お前が知る必要はない。その名の通り、俺の人形でいればいい」

 突き放すように言って、凪はその場を去っていく。
 何も考えるな、と。
 ただ言われた通りのお人形でいれば、今の生活は保障される。
 温かい食事と、温かい寝床。
 相対するように冷え切った人間関係。

(飢えていた時に似てる……)

 異常な愛情の中で生きてきた冴は、【普通】の愛情というものを知らない。
 誰かから愛され、そして愛してみたかった。
 親愛でも、恋情でも、何でもいい。
 与え与えられる等しい関係に、焦がれた。ディオールとロコを見て、それは募るばかり。
 どうやったら『仲良く』なれるのか、その方法が分からなかった。こればかりは、相手在ってのことだし、独りよがりで済む事でもない。
 数日前に会ったばかりなのに、凪といるとどこかふとした瞬間に懐かしく感じる時がある。
 ずっと昔から彼を知っていたような、怖いのに、安心するような、不思議な感覚。

(怖いのに、離れていくと傍にいたいって思うのは、どういう気持ちなんだろう)

 自分のことなのに、それすらもよくわからない。

「冴ちゃん? 大丈夫?」

 握り締めていた雑巾をじっと見つめながら考え事をしていた冴に向かって、遠慮がちに掛けられた声。
 冴はハッと我に返り、声のした方を振り返った。

「ディオ……」
「慣れないことして、気分でも悪くなった?」
「ち、違うの。ロコを探していたんだけど、見当たらなくて」

 決して気分が悪くなったわけではない。ただ少し考えことをしていただけで、心配させるようなことは何もなかった。冴は慌てて言い繕う。

「ああ、そうそう。なんかスイッチ入っちゃったみたいで、あちこち掃除して回ってたんだよね。それで、粗方終わったから君を呼んできてほしいって頼まれたんだ。そろそろ昼食にしようって」
「え? もう他の所は終わってるの?」
「ああ見えて主婦歴ながいんだよねー」

 あははーと軽く笑いながら、ディオールは踵を返す。ついておいで、と言わんばかりに視線をよこして歩き始めた青年の後を、冴は返す言葉もなくついて行った。





「ごめんなさいね、冴。ワタクシったらつい集中しちゃって」
「それは大丈夫だけど……」

 返しながら、椅子を引くディオールに流されるまま席に着いた冴は、綺麗に配膳されてくる料理を目で追った。

「いつの間に作ったの? 私、何も手伝えてない」
「少しずつでいいのよ」
「そうそう、先は長いんだし、焦ることはないよ」

 向かい側に腰を下ろし、ディオールがにこりと微笑む。その隣に、ロコも落ち着いた。

「それでは、頂きましょうか。簡単なもので済ませてしまったから、お口に合うかわからないのだけれど」

 簡単、という言葉の意味が正しければ、冴にはとても目の前に振舞われた料理が簡単なものには見えなかった。
 当然ながら、見たこともない食べ物が並んでいる。
 数日間で一番驚いたのは何よりこの食事だ。三食何の苦労もなく空腹を満たせるというのが、これほどに幸福を得られるものだとは知らなかった。

「この量で、四人分なの?」

 今テーブルの上に並んでいる料理だけで、どれくらい凌げるだろう。
 冴の感嘆に、ロコが首を傾げた。

「四人? ここにいる三人分だけれど?」

 あと一人は誰? と言わんばかりに不思議そうな表情を浮かべている。

「えっと……凪は?」
「……食べるの?」

 すっかり頭になかったというような口調で、ロコは納得したように手を叩く。

「そもそも、凪・リラーゼは食事をするの? 食べているところを想像できないのだけれど」
「いやいや、凪も人の子だよ? 食事くらい普通にするよ」
「ディオは見たことあるの?」
「……お茶を飲んでいるのは見たことあるね」
「それはつい最近ワタクシも見たわ」
「私も」

 そこで空間が静まり返った。三人が三人、思うところに行き当たったらしい。

「え? いやまさか本当に食べてないってことはない、よね?」
「否定できない所が恐ろしいわ」
「……部屋に運んだ方がいいの?」
「お腹がすいたら勝手に食べるのじゃない?」
「そもそも今まで凪はどうやって生活してたんだろうね? そういうのはあんまり気にしたことなかったな」
「ドーマの屋敷に使用人はいないものね。身の回りのお世話は基本ドールがやるのが暗黙の了解になっているから」

 今までドールがいなかった凪は、やはり一人で身の回りのことをこなしてきたのだろう。掃除もしていたくらいだし。
 彼がフライパンを振っている姿や雑巾を絞っている姿など、あまり想像したくはないが。

「ロコ、お願いがあるんだけど」
「お願い?」
「このお料理、少し分けてもらえる?」
「それはもちろん構わないけれど……」

 凪の所へ持っていくのだとすぐに理解したロコは、いいながら複雑そうな表情を浮かべている。

「持って行っても、食べるかどうかわからないわよ?」

 門前払いで終わる可能性の方が遥かに高い。
 そもそも食事をとるつもりがあるなら、今まで食堂に顔を出すくらいのことはしてもいいはずだ。
 それが一度もないということは、冴たちと食事をとるつもりはないということなのだろう。

「解ってはいるんだけど……食べてくれるまで頑張ってみるつもり」

 宣言したはいいものの、その時冴はうまく笑えなかった。





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