10 それぞれの思惑





 振りほどかれる手。
 向けられた背中。
 伸ばした腕は、いつだって何も掴んではいなかった。
 ただ絶望と、失望と、失意と、憎悪だけが、その身体に残った感情の全て。
 ドーマは、異端。
 その力は、異質。
 この世に生み落とされた、異分子。失敗作。
 不完全な、人間。
 それ故に、抱えるものは『傷』などという一言では言い切れないほどの、混沌とした深い『闇』であった……―――――





 突き刺さった爪が引き抜かれ、続くように飛び散った鮮血。
 ゆっくりと傾ぐ身体。
 冴の思考は、今度こそ停止した。悲鳴も喉に張り付いて、それ以上は出てこない。ただ流れ続ける涙が、彼女がその光景を見ている唯一の証であった。
 完全なる悪夢。
 凪の身体が、床に崩れる。

「な……ぎ……?」

 冴は目を見開いたまま、涙を零したまま、倒れた凪を凝視した。
 凪はピクリとも動かない。何度呼んでも。名を叫んでも。

「凪……?」

 冴は立ち上がり、フラフラと安定悪く凪の傍へ駆け寄ると、そのまま彼を抱き起こした。

「う、そ? うそ……でしょう? 凪? い、ぁ……いや、嫌よ……っ」

 何度も呼びかける。何度も何度も。それでも、凪は応えない。
 反応はなく、呼吸でさえもか細く頼りない。喘ぐ体力もないかのようで。

「凪! いや……いやあぁぁっ!!」

 死んでしまう。本当に、凪が死んでしまう。冴は彼を抱く腕に力をこめる。
 失うわけにはいかない。失いたくない。
 凪を失えば、彼がいなくなってしまえば、冴は全てを奪われる気がした。それはこの世の終わりであるかのような恐怖。絶望。

「……そんなに大事なんだ、器が」

 少年の呟きは、誰の耳にも届かなかった。興味が失せたように視線を外し、小さく吐息すると同時に、佇んでいた青年がまるで糸が切れたかのようにその場に崩れ落ちた。意識を失ったように倒れこみ、こちらもピクリとも動かない。
 それに続くように、ロコもその場に倒れこんだ。床に落ちる身体を、ディオールが受け止める。その表情は、あまりにも悲痛なものであった。

「ごめん、ロコ」

 ディオールはロコを脇に寝かせると、冴の傍に駆け寄った。肩に手を置こうと手を伸ばし――――――瞬間、乾いた音と共に、それが弾かれた。

「いやぁぁッ! こないでっ、触らないで!」

 同時に冴の絶叫。ディオールはそれに軽く動揺した。動きが止まる。

「触らないで! これ以上傷つけないでっ! やめて……やめてぇぇっッ!」

 弾いたものが、ディオールの手であった事実など、もはや冴にはどうでも良かった。その行為で、彼が少なかれ傷ついたとしていても、今の冴には、凪だけが全てだった。
 酷いパニックを起こしているこの状況で、まともな思考は働かない。ディオールが敵か味方かの判別も出来ないほどに。
 全てが敵であるかのように見え、冴は、その全てのものから凪を守ろうと頑なになっている。

「冴ちゃん……? 僕だっ、ディオだ! 解らないのか!?」
「こないでぇぇっッ!!」

 混乱している冴に、ディオールは必死に説得を試みる。だが、まるで意味をなさない。
 冴は首を振り、凪を庇い、頑なに全てを拒もうとする。
 何も見ない。何も聞こえない。
 完全なる拒絶を見せて。

「凪……! 凪っ!!」

 とめどなく流れる涙を拭うこともせず、冴は必死に名前を呼んだ。震える手で止血を試みるも、うまくいかない。血は止まらない。

「い、ゃ……止まらない。なんで? なんで……止まって、止まってよ! 血がこんな……こんなっ」

 弱くなっていく呼吸。下がっていく体温。
 近づく、死――――――

「ダメ、やめてっ! いやよ、嫌……やああぁぁっッ!!!」

 這い上がってくるそれは、恐怖。
 言い知れぬほどの絶望。
 冴の中の何かが、警鐘を鳴らしている。


 彼を失ってはいけない


 彼の死によって、全てが終わる。冴の全ても、終わってしまう、と。
 冴は凪を抱きしめたまま絶叫する。涙が頬を伝っても、凪の血が全身を染め上げていっても、冴は決して凪から手を離さなかった。

「……な……」

 その叫びに応えるように、息も絶え絶えに凪が声を漏らす。冴はその蚊の鳴くような弱弱しい声を聞き取り、動きを止めた。

「凪……?」
「く……泣く、な……」

 凪は苦しそうな表情を浮かべながらも、血に塗れた手を伸ばし、冴の頬にそっと触れる。

「な……っ」

 凪の手を掴もうとするが、しかしそれより先に伸ばされた手が離れ、ゆっくりと降下していく。冴の記憶も、そこで途切れた。



**********



 明かりは蝋燭の炎だけ。
 シーツに染みた込んだ血が、傷の深さを物語る。ベッドの上に横たえた凪の傷を一つ一つ丁寧に治療していきながら、少年は凪のとった行動を思い返していた。
 盾になるはずのドールを庇い、自ら傷を受けた浅はかな行動。一度ならず、二度までも同じ行動を繰り返した彼に、少年は疑念していた予想を確信へと変える。

「オルビス……」

 凪を診ていた少年にかぶさるように伸びた影。苦渋の色を浮かべたディオールが、少年の後ろに佇んでいた。

「凪の傷は……深いのか?」
「相当ね。手加減しなかったし」

 さらりと答え、少年は凪の身体に包帯を巻いていく。彼の答えに暗い影を落とし、ディオールは尚も質問を重ねる。

「……何でここまでする必要があった?」
「彼は、禁忌に手を出すつもりなんでしょ?」

 ディオールの問いを無視し、オルビスと呼ばれた少年は別の質問で返した。その問いに、ディオールの表情が曇る。

「あんたがどこまで知って、どこまで協力してるのかは知らないけど、解らないなぁ。何でそこまでするの?」
「それは……」
「ドーマやドールは、皆それぞれ何かを失う痛みを、知ってる。取り戻したい切望も渇望も、それができるんじゃないかっていう錯覚も。だから、やりたければ好きにすればいいんじゃない? だけど、他人がすることになんであんたがそこまで協力的なのかが理解できない。あんたの性格上、止める側じゃない?」

 ドーマ間での付き合いは浅くても、目の前の青年がどういう人物なのかは、大体理解しているつもりだった。彼らしくない立ち位置だけが、唯一の違和感で疑問。オルビスは、それが知りたかった。

「禁忌が何で禁忌なのかは、理解してるんでしょ? あのドールがどうなるかだって、解ってるはずだよね? 僕たちのドールにだって、影響が出ないとは言い切れない」

 少年の発言は、全くもって正論だった。ディオールは返す言葉がない。
 解っている。
 解っていて、何もできない自分が腹正しいことも。
 自分の言動が、矛盾でしかないことも。

「まぁ、その理由はおいおい突き詰めていくけどさ。それよりも、なんであの子はあんなに取り乱してたの?」
「あの子?」
「うん。新しいお人形さん。完全にパニックになってたでしょ? 何であんな風に傷ついてたの? 自分のドーマが死ぬかも知れないという恐怖から? まさか、そんなはずないよねぇ? だって、僕たちは……」
「オルビス!」

 ディオールが咄嗟に遮る。

「なぁんにも知らないお姫様なんだね。可愛そうな子」
「言わなかったわけじゃない。タイミングをみて伝えるつもりだったんだ」
「ふぅん、まぁ、それでもいいけど。でもさぁ、結局どんなタイミングであれ、傷つくときは傷つくんじゃないの? 僕には、あんたの傲慢な偽善にしか思えないんだよね、そういうの。なんていうの、自己満足?」
「……そう、なのかもしれないな」

 素直に肯定するディオールに興がそがれたのか、ふんっと鼻を鳴らして、オルビスは肩をすくめた。

「ま、どうでもいいけど。あぁ、そうだ。一つだけ忠告しといてあげる。この件で戎夜に害があると判断した時は、どんな手を使ってでも止めるよ。これの意味、わかるよね?」

 この場に相応しくない、不敵な笑み。

「その時は、僕がみぃんな、壊してあげる」

 不穏な台詞だけを残して、満足したように少年は部屋を出て行った。扉が閉まる音だけが耳に残る。
 遠くなる足音を聞きながら、ディオールはベッドに横たわる凪へと視線を向けた。
 丁寧に包帯の巻かれた凪の身体。腹部は深く傷つけられ、抉られた肩の傷も、治癒するまでには相当時間を費やすだろう。
 普通の人間であれば致命傷となる傷でも、凪が、ドーマが死を迎えることはない。その事実を、少年が言うように冴は知らない。
 教えていないのだから。告げていないのだから。

「……凪、彼女は違うんだ」

 傷つけられた凪の身体。それは、己のドール、冴を守るためについたものだ。盾であるドールを庇い、身を挺してまで守ったために負った傷。
 だが、凪が本当に守ったものは……

「それでも、傷つけられるのを厭うんだな」

 ポツリと、確かめるように零れた言葉は、しかし、凪には届かなかった。





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