11 ドーマとは ――――――お前の部屋だ。自由に使え…… 降ってきた声と共に広がったそこは、『居場所』だった。 自分を死に追いやるものなど何もない、安全な居場所。 自分のためだけの、空間。 その時冴は、許されたような気がしたのだ。 混乱している中でも、状況が何一つ解らなくても、ただ、胸の奥底で感じた自分自身にでさえ解らないような安堵。 ここにいてもいいと、必要なのだと、言われたような気がして。 常に隣り合わせだった死との恐怖に、もう怯えなくてもいいのだと告げられたような気がして。 それが例え偽善でも、ただの義務だとしても、その安堵を、安心を与えたくれた凪だけが全てだった。今の冴には、彼が絶対だった。 そう、全てだったのに…… 「な……ぎ……」 静かに流れた一筋の涙。 その後を追うように開かれた瞳に気づき、青年は冴の顔を覗き込んだ。 「気が付いたか?」 「……?」 うっすらと開かれた、光の灯らない瞳。泣きはらした目元は、誰が見ても痛々しい。 冴は意識の覚醒と共に、視界に広がった影を見つけ、即座に起き上がった。目の前にいた人物を捉えた双眸は、驚愕に見開かれる。 「ッ――――――!」 安堵と困惑の色を浮かべた、グレイの瞳。忘れられるはずのない顔が目の前に現れ、冴は擦れた悲鳴を上げながら後退した。一気に彼女の中を駆け巡った激しい憎悪と恐怖。 しかし、背中に軽い衝撃を受け、残酷にも逃げ場がなくなったことを知る。 「なん、で……っ」 一瞬どこだか分らなかったが、よく見れば自室であることが分かる。なぜ自分の部屋に【彼】がいるのか。 目の前にいる、青年。彼こそ、無慈悲なまでに凪を襲った人物その人だ。 「凪は……!?」 なぜこの青年が目の前にいるのか不思議だったがそれよりも、瀕死の傷を負った凪は、一体どうなったのか。なぜ自分はベッドの上で目覚めたのかも……途中から記憶が無い。 寝起きに突き付けられた情報量が多すぎて、処理が追い付かなかった。 「お前のドーマならば無事だ」 百面相していた冴を静観していた青年が、やけに落ち着いた声を上げた。 「お前のドーマが倒れた後、お前もそれを追うように気を失った。半日ほど眠っていたんだ」 言い聞かせるように、一言一言ゆっくりと現状を説明する青年の顔を、冴は静かに凝視する。 「お前のドーマも、今は自室で眠っている。オルビスと南のドーマが手当てをして、命に別状はない」 「っ……本当、に……?」 告げられた事実に、冴は溢れ出す感情を抑えることができず、情けない声をあげた。 凪は無事。生きている。その事実が、どれほど冴を安堵させただろう。 もう駄目かと思った。失うのではないかと絶望もした。けれど、凪は生きている。それが分かった途端、身体から力が抜けるのが分かった。 「……すまない」 「え?」 放心状態の冴は、一瞬何を言われたのか理解できなかった。虚空を見つめていた視線を、青年に向ける。 彼は居たたまれない、なんとも言えない表情を浮かべていた。 凪を襲った時、躊躇なんてものは彼には無かった。感情など無いのだと思わせるような冷たい瞳が印象的だった。 全く人が変わったかのような雰囲気と態度に、疑問が浮かぶ。冴は訝しむような表情を無意識に浮かべていた。 「あそこまで傷つけるつもりはなかった。お前の気持ちは痛いほどわかる。だが、俺は命令には逆らえない」 「どういう、こと?」 果たしてどちらが本当の姿なのか。 いくら素直に謝られたところで、彼のしたことを許せるはずもない。彼に対しての怒りは消えない。 理由はどうあれ、凪を傷つけたことには変わらないのだから。けれど、余りの豹変振りに一概に責め立てることが、なぜか躊躇われた。 「俺も、ドールだからな」 紡がれた事実に、冴は絶句した。 (彼が、ドール?) 「俺は西のドール、戎夜(ジュウヤ)。俺達は決して、無意味にお前のドーマを傷つけたわけじゃない。詳しい理由は俺にも解らないが、オルビスは意味のないことは絶対にしない」 「オルビス?」 冴は首を傾げ、小さくその単語を呟く。記憶の端で、誰かが叫んだそれ。 「僕の名前だよ」 問いかけに応えるように返ってきた突然の声。冴はビクリと肩を揺らし、ゆっくりと声のした方へ視線を移す。 金の髪に、翠の目。褐色の肌を持った少年が、扉に背を預けるようにして佇んでいた。目が合うと人懐こい笑みを浮かべ、冴の元へ近づいてくる。 「僕は西のドーマ、オルビス・ジェンファ。君は?」 悪意のない笑み。こちらも先ほど見た時とは全く印象が異なる。すっかり彼らのペースで進んでいく展開に、面喰って言葉がうまく出てこない。 「さ、え……です」 「冴? いい名前だね」 にっこりと笑みを浮かべながら、オルビスは冴の腕を取ると手の甲にキスを落とす。以前ディオールにされた時と同じく、それが挨拶だと理解するまでやはり数秒かかった。 目の前にいるのは凪を襲った者達なのに、おもわず頬に朱が差すのは不可抗力と言うものだ。女性扱いされることに慣れていないのだから仕方が無い。 「冴が警戒するのも無理はないけど、大丈夫だよ? こっちの僕たちが素だからね」 見透かしたようなオルビスの言葉に、冴の顔から血の気が引いていく。 「突然でビックリしたよね? まさか何も知らないなんて思ってなくて、怖い思いをさせてごめんね?」 「どうして凪にあんなことしたの?」 今の二人を見ていると、違和感しかない。 突然のこと過ぎて、何も理解できていない状況を少しでも理解したかった。冴は食って掛かる勢いで疑問を口にする。 「その問いに答える前に、基本的なことから説明してもいい?」 「基本的なこと?」 「そう。まずは僕達ドーマがどういった存在なのか、それを、君は知っておかなくちゃいけない」 途端に真摯な表情を作ったオルビスに、彼の言わんとすることが分からず首を傾げる。 ドーマ。それは異端の人形師。 魂を掌握し、生きた人形を作ることのできる、異端者。そのように受けた説明以外にも、何かあるということなのだろうか。 「私達みたいな生きた人形を作れる人形師だって……違うの?」 「違わないよ。ただそれは表面的な部分にしか触れてないってだけの話。そもそも何で僕達が生きた人形を作れるのか……それは、僕達ドーマが長い時間を生きる異端者だから」 時間にして言えば、たっぷり10秒はあっただろうか。 オルビスの言葉の意味を理解することが、それだけかかってもできなかった。 「ドーマは不老長寿。どんなに大量に出血しても、どんなに致命傷を負っても、外部からの衝撃によって僕達が死ぬことは無い。ドーマの中に顕在するこの異端の力が、それを許さないから。まるで呪いのように死を妨げる……」 「もちろん、ドーマが死なない限り、ドールである俺達も死ぬことはない。ドーマが壊さない限りは」 戎夜が言ったことは、以前ディオールが説明したものと同じだった。 一人のドーマに一人のドール。新しくドールを作りたければ、今在るドールを壊す……殺すしかないのだと。 だがそれよりも。 (死なない?) オルビスがさらりと告げた内容があまりにぶっ飛びすぎて危うく聞き流すところだった。 人は、普通死ぬ。 人だけでなく、この世界に生きる命あるもの全てが、等しくいつか死を迎える。 それが、ドーマにはないのだと、オルビスは言った。 「本当に、死なないの?」 「病気や外傷ではね。もちろん、僕達もいつかは死ぬよ。恐ろしく途方もない時間を生きた後、いつか訪れる寿命がくれば、ね」 「なんで、そんなことに?」 病気でも外傷でも死なない。寿命だけが、ドーマの生を終える唯一の手段。 でもなぜ、ドーマだけがそんなことになってしまうのか。 「おそらくは、テロメアが普通の人間より多い、あるいは増殖しているのだと俺達は考えている。どちらにせよ、ドーマが持つ異質な能力の作用によって引き起こされる現象だろうが、詳しいことはまだ解っていない。しかし、そのせいで成長を恐ろしくゆっくりとしたものに変化させてしまうんだ」 「薬によっては、その人によくない症状を引き起こしてしまうことがあるでしょ。あれと同じ。僕達は異端の力という薬を使う代わりに、不老長寿という副作用を強いられた。簡単にいえば、そんな感じかな?」 不老長寿。 それは、一体どれほどの時間を指すのだろう。 永遠にも似た、途方もない時を生きるのは、どんなものなのだろうか。 「まぁ、不死なんて言っても、痛覚はある上にドールほどの治癒力はないからねぇ。肉を裂かれれば激痛が、致死量の出血には暫く動くことさえできない。いっそ死んでしまいたいと思ってしまうような苦しみに耐えなくちゃいけない」 淡々と紡がれる内容が居たたまれなくて、冴は途中で考えるのをやめた。 自分達が置かれている状況があまりにも非現実的すぎて、理解も想像もうまくできない。 「ちなみに、ドーマの中で最年長者なのはディオールだよ。彼がどれほどの時間を生きているのか、正確な数字はわからないけどね。僕だって、こう見えても冴の歳の三倍近くは生きているんだから」 オルビスはさらりと告げる。冴の歳の三倍。その数字は、普通の人間が人生の半分を終えた年数に価する。 この目の前にいる幼い少年が、すでにそれだけの年数を生きているのだ。これが、ドーマに与えられた副作用。 「言っておくけど、僕なんてドーマの中では赤子同然なんだ。ディオールのドールにも及ばない」 「え?」 ディオールのドールは、ロコだ。 なぜ彼女が出てくるのか、冴はオルビスを凝視する。 「本当に、何にも知らないんだね。ドールはドーマと一蓮托生。さっきも言ったけど、ドーマが死ぬか、壊さない限りドールは絶対に死なない。つまりね? 一番長く生きているディオールのドールであるロコも、それなりの長さを生きているってことさ。少なくとも、僕の倍以上は生きているだろうね」 冴はあまりの事実に、反応を返せない。口元に手を当て、俯いた。 あの幼いロコが、人の寿命以上を生きている。 冴などには想像もできないような時間を。比較などできないような年月を。 ずっと、今まで妹のように思っていたロコが、実は自分よりもずっとずっと年上だったのだ。だから、あんなにも彼女は強く、大人びて見えたのだろうか。 『ワタクシから言わせれば、凪・リラーゼなどまだまだ子どもだわ』 だからこその台詞だったのだろうか。 あの時冴は軽くそれを流した。彼女の強がりだろうと勝手に決めつけて。けれど、それが紛れもない事実だとしたら? 「でも、ロコは……」 ロコはどう見ても、十歳も満たない姿をしている。それだけの年月を生きてもなお、あれだけの成長しかしないのか? 「冴、忘れてない? 君達はドール、元が人形なんだよ? 人形が成長するわけないじゃない。姿なんて、一生変わらないよ」 そうだ。確かにロコも最初、そんなことを言っていた。ちゃんと聞いていたのに、そんなことすら忘れてしまうほどに、自分達は人間と変わらない。今も、自分が人形だなどという実感はほとんどないのだ。 「ドーマもそうなの?」 「確かに不老長寿だっていったけど、僕達は成長しないわけじゃない。そもそも、力の発現がドーマによって違うからね。産まれた時からドーマの力があるわけじゃないんだ。僕たちだって最初は普通の人間だったんだよ。それぞれのタイミングで、ドーマの力が目覚めて、力が覚醒した前後の姿で成長が止まるんだと思う。まるで時を忘れたかのように、何にも変わらない。でも寿命を迎えると、今まで止めていた時を早送りしたかのような速さで老化していくんだってさ」 まるで他人事のように話すオルビス。 「……実際、ドーマの寿命なんて見たことないからわからないけどね。さて、ここで問題です。そんな異端の力を持った人間を、冴はどう思う?」 「え?」 突然問われ、思考が追い付かない。 質問の意味が分からないといった風に首を傾げる冴に、オルビスは意地悪な笑みを浮かべた。 「気味が悪い。そう思わない?」 「っ!」 冴は、答えられなかった。否定も肯定もできずに、オルビスが言わんとすることを瞬時に理解して唇を噛み締める。 「老いることも、死ぬこともない人間が近くにいたら、怖いって思うでしょう? 得体が知れないものには、いなくなってほしいって思うでしょ? 例えば町の中にそんな奴がいたら、追い出したくならない?」 「それは……」 「一対一なら、まだいい。でも一体多数になると、途端に人間は凶暴になるんだ。残虐な生き物になるんだ。自分たちとは違う異質な者を排除しようと必死になる」 人間は、異質な存在には冷酷だ。 自分達とは違う、理解を越えた存在には非道になれる、どこまでも。 でもそれは、自分たちの生活を守るための正義なのだ。 「僕たちは傷つけられても死なないけど、痛みはあるんだ。だからね、守るためにドールを使うんだよ」 「ドールを、使う?」 「そう。最初にあった時、戎夜の雰囲気が全然違ったの覚えてる?」 冴はその問いにこくりと素直に頷いた。 今とあまりに態度が違うため、警戒した要因の一つである。 「あれは僕がドール化させてたからだよ。ドール化っていうのは、その名の通り、人形のように自由に操ること。ドールの心、意識を一時的に奪い、ドーマの命令にのみ従う状態のことさ」 「あの状態になっている時の記憶は、俺たちドールにとっては朧げにしか残らない」 戎夜が付け足す様に加えた。 冴は予想もしてなかった事実にただただ言葉を失うだけだ。 (心を、意識を、奪う? 操る?) ドールである自分も、戎夜のような状態になる可能性がある、ということ。 凪にその意思があれば、可能性はゼロではない。 「ドールは言わばドーマの盾であり矛だから。異端者だったから、生きた人形を作れるようになったのか、それを作れるから異端者になったのか、どっちが先だったのかは分からないけどね」 「だから……最初と今の戎夜さんと、違ったってこと?」 「そゆこと。だからまぁ、実質凪・リラーゼを襲ったのは僕ってことで、戎夜のことは許してくれないかなぁ?」 貼り付けられた笑みを、冴はじっと見つめた。 (何だろう、この違和感……) 五十年生きていても、目の前の少年は年相応に見える。まるで大人になることを拒み続けているような、歪みのようなものを感じ取り、冴は小さく吐息した。 「戎夜さんは許して、オルビスは許さない。そう言えば、いいの?」 おそらく、予想していなかったのだろう。予期せぬ返答に、オルビスの瞳孔が開く。 「ふっ……オルビス、お前の負けだ」 「戎夜、笑い過ぎ。あーあ、まいったなぁ。意外と図太いんだね、冴」 「えっと……?」 「はは。ごめん、ちょっと試した。ただのお飾りな人形だったら、さっさと切り捨てようと思ってたんだけど……まいったなぁ、予想を大きく外してくるとはね」 素直に喜んでいいのか複雑だ。試されていた事を白状されて、反応に困る。 先程感じた違和感の正体は、これか、と冴は複雑ながらも納得した。 「凪のことは本当にごめん。怪我が治るまで、ちゃんと面倒は見るから。許せとはいわないけど、誠意は感じてもらえると嬉しい」 「俺からも頼む」 二人が冴を見ていた。そこに悪意は感じられない。 冴も気づかないうちに警戒を解いていたくらいには、目の前にいる二人は自然体だった。 「改めてよろしく、冴」 だからだろうか。 言いながら差し出された手を、少女は素直に握り返すことができた。 |