12 それが二人の在り方





 ずっしりと、身体が重たい。
 肺が押しつぶされるような感覚に、少女は思わずせき込むと、薄っすらと瞼を上げた。途端に視界に飛び込んだのは、叩き割られた花瓶の破片と、絵の具を溶かしたような紅。
 散った花がその紅に沈み、白い花を真紅に染めていく。
 あぁ、全部、夢だったのだ。少女は諦めにも似た笑みを浮かべた。今までの幸福な記憶は、全て夢。現実をホンの少しの間忘れることができる、己の望む幸せな世界。

――――――だって、ほら……聞こえる

 自分を罵倒する声。
 傷口をさらに抉るような鋭い痛みを与える旋律。
 己が無力であることを痛感させられ、不必要なのだとつきつけられる現実。
 自分はこの世には必要のなかった存在で、ただの厄介者で、重荷で……
 夢が覚めた時、そこには恐怖する現実だけがあって。夢も希望も、倖せと呼べるものは何一つない世界。欲しい物は何一つ手に入らない。
 たった一つだけなのに。望むものは一つだけなのに、その一つが手に入らない。どうしても、どうやっても。
 だからこそ、少女は絶望に付き落とされ、希望を断ち切られ、夢から覚めなければならなかった。
 混濁する意識の中、少女は紅色に染まる花びらに手を伸ばす。ぬるりとした生温かいその紅に手を浸し、震える手ですくい上げる。だがその瞬間、手首に痛みが走った。

『この役立たずが! いつまで寝ているつもりだ! 育ててやった恩も忘れてこの穀潰しが!』

 まるで踏みにじるように。嘲笑うかのように。
 声と共に降ってきた足が、少女の腕を力強く踏みつける。何度も何度も。

『っ……』

 少女は途端に悲鳴を上げる。けれどそれは喉の奥に張り付き、擦れ、荒い息となって口から漏れるだけで声にはならなかった。もはや抗う体力など残っていない。
 ただ、痛かった。全てが。腕も、傷口も、心も。
 毎日を踏みにじられながら、屈辱に耐えながら、ただ道具のように使われ意味もなく生きる。そんな世界にいる理由が、どこにあるのだろう。それでも生きている自分は、一体なんのために在るのだろう。
 何度も殺されかけたことはある。死ぬのだと覚悟したこともある。けれど、いつもギリギリのところで生き延びる。それは、自分の養父が決まって止めを刺さないからだ。
 まるで先の見えぬ『死』というものを垣間見せるように。恐怖を煽るように。
 そしてその恐怖を味わうたびに、少女は願うのだ。近づく死を遠ざけるように、たった一つの望みを夢見て、叶わぬ願いを想像して、醜く生に縋りつき、少女は全てを諦められなくなる。
 もしかしたら……
 もしかしたら、手を伸ばし続ければ、いつか誰かが掴んでくれるかもしれないという奇跡を求めて。終わりとは遠い、どこかへ連れて行ってくれる誰かが現れることを夢見ることで、全ての恐怖に耐えてきた。
 少女は腕の痛みを忘れるように、瞳に涙をためて、ゆっくりと目をとじる。
 ただ、一人でいい。一人だけでいいから、必要として欲しい。
 そう、願いながら……


――――――生きたいかい?


 ふと、身体が軽くなったのに気づいて、少女は目を開ける。瞼を上げるなり広がった、まるで陽光が輝くような眩しさに、咄嗟に目を細めた。
 感じるのは、日溜りのような温もり。
 少女は、ゆっくりと目線をずらし、声の主を見つける。優しい眼差しと出会って、思わず目を見開いた。


――――――独りが厭というのなら、僕が君を必要とする


 何を言っているのだろう……少女は一瞬耳を疑った。身体に染み込むような温かさに、知らず知らず涙がこぼれる。
 ただ一人。たった一人でいい。
 必要だと言ってくれる誰かが、欲しかった。ずっと、欲していたもの。
 少女はじっと声の主を見つめた。彼の瞳には、曇り一つない、綺麗な深海の色が煌いている。どこまでも深く、綺麗なその色に。その温かな眼差しに。思いが溢れた。
 あぁ、これだったのだ。
 少女が求めていたものは。今までこの世界に在り続けていたのは、この時のためだったのだ。
 彼女は震える手を懸命に伸ばして、精一杯、力いっぱい、彼の服を掴んだ。意思を示すように。
 貴方のために、生きたい、と。





 自分の頬を何かが伝う感覚に、ロコは目を覚ました。
 ゆっくりと双眸を開き、まどろむ意識を徐々に覚醒させていく。視界が捉えたワインレッドに一瞬ビクリと身を振るわせ、それがカーテンの色だと気づくと、安堵したように息を吐き出す。
 酷く懐かしい夢を見ていた。現実と錯覚してしまうほど鮮明な夢……過去の夢。

「ワタクシ、どうしてベッドに……」

 気持ちを切り替えるように軽く頭を振り、意識がはっきりしてきたところで上体を起こし、辺りを見渡す。
 そこが、今借りている自分の部屋だと理解するのに時間はかからなった。だが、自分が眠った記憶は、ない。

「ディオ?」

 まるで親とはぐれた子どものような弱々しい声で何度か呼び続け、ディオールがいないことを知ると、ロコは僅かに肩を落とした。
 仕方なく、自力で記憶を手繰りよせることにする。しばらく考え込んで、市場へ行った帰りに、屋敷から轟音が聞こえ、それから咄嗟に駆け出した冴を追いかけたところまでを思い出した。
 だが、それも途中までだ。冴の姿を見つけた途端、意識が途切れて―――――
 そこで、ロコはハッとする。

「あぁ……」

 ドール化という答えに行きつき、僅かに表情を固くした。どうりで途中から記憶がなく、随分と見なかった過去の夢をみたわけだ。納得の色を見せながら、彼女は飛び下りるようにベッドを出た。

「仕方のない人。またどこかで泣いているのね」

 重たい身体を伸ばし、ロコは仰いでいた顔をゆっくり正面に戻す。
 気合を入れるように頬をぺちっと軽く叩いてから、部屋を飛び出した。

 長い回廊を駆けぬけ、ディオールの姿を捜してさまよう少女は、息が上がり足を止めた。どこへ行ったのか、自宅でない分見当がつけられない。
 借りている部屋を覗いてもいないし、とりあえず一階を普く見て回ったものの、彼の姿はない。

「ディオったら、どこに行ったのかしら」

 ここが自宅であれば、おそらく彼は頻繁に足を運ぶ庭園にいることだろう。ディオールは花を愛でるのが好きだった。多種多様の花をいつも愛しそうに眺め、育てるのを趣味にしている。
 エレウスは豊かな大陸だけあって、緑も豊富だ。色とりどりの花や草木がある。
 けれど、この屋敷にそんな場所はない。まともな植物すら見当たらないこの大陸の屋敷に花園などがあれば、それはそれで異様だが。
 ロコは大分落ち着いてきた呼吸を確かめ、再び地を蹴った。
 一階にいないのなら二階にいるのかもしれないと、上に繋がる階段に足をかけたところで、彼女ははたと動きを止める。
 どこから吹き込んできたのか。微かな風がロコの髪を撫で上げた。どこかの窓が開いているのだろうか。彼女は違和感を覚え、視線をさまよわせるとある一点で視線を止めた。
 廊下から出られるテラスの柵に凭れ、遠くを見つめる捜し人がそこにいた。彼の姿を認めると、ロコは安堵を感じて溜まっていた息を吐き出す。

「こんなところにいたの」
「……ロコ」
「隠れるのが上手いわね。随分捜したんだから」

 ワザと軽い調子の物言いをするロコ。その彼女らしい気遣いに、ディオールの瞳が一瞬翳る。

「いつも笑っているディオがそんな顔をすると、こっちまで笑えなくなってしまうわ」
「ごめん」

 彼の顔に苦渋が浮かんだ。

「ごめん、ロコ。僕は……」

 ロコの過去を唯一知るディオールは、彼女を傷つける対象やそれに繋がる事象には過剰なほど敏感に反応する。普段は何食わぬ素振りをしているが、心中では常にロコを中心に物事を考えているのだ。
 傷つけないように。これ以上傷つかなくていいように。
 だから余計に、彼女を『使った』という事実は、ディオールにとっては重くのしかかる。今まで彼女をドール化させたことがなかったわけではない。けれど、極力その力は使わないようにしてきた。
 それはロコが嫌がるからではなく、彼が厭だったからだ。
 それなのに彼女をドール化させたのは、ロコが大切にしている少女を守りたかったから。ディオール自身が庇うこともできあたが、そうすると最悪彼が傷つくだけでなく、庇いきれずに冴達までまき込む可能性もあった。
 もしあの時ディオールが動けないほどの傷を負っていれば、事はよりいっそう悪い方向へ傾いていただろう。だからこそ、あの場は防戦に適したロコをドール化させるより他になかったのだ。
 何より、操る際に躊躇することのないオルビスのドール、戎夜は強い。
 でもだからといって、「仕方なかったんだ」なんて言い訳をしたくなかった。ドール化させた事実は変わらない。それがどんな理由であれ。ディオールは深く肩を落として俯く。
 そんな彼を見つめながら、ロコは小さく肩を竦めた。呆れたような響きを含んだ吐息に、ディオールは僅かに肩を揺らす。

「……ディオがワタクシを物として見ていないことは、ワタクシが一番よく解っているわ。貴方がそういう見方をするのを嫌う人だということも、ちゃんと知っている」

 ロコの言葉に、あぁ、とディオールは贖罪のようなものを感じた。それも、解っていた。ロコが自分を許すことも、責めないことも。解っていて、結局彼女を使う自分も。使った後に自責の念に襲われることも。
 結局は、ディオールの勝手なのだ。勝手に後悔して、勝手に傷ついて、勝手に落ち込む。ロコもそれは、解っていた。

「だから、貴方が責任を感じる必要はないのよ? オルビスじゃないけれど、なぜそんなに自分を責める必要があるの? ディオ、貴方はワタクシを『使った』のではないわ。冴達を守るという役目を与えてくれたの。ワタクシは必要とされたの。あの時、ドール化したワタクシがどうしても必要だった。そうでしょう?」

 ロコは膝をつき、ディオールの頬を包みこむように手を添える。その泣きたくなるような優しい眼差しに、安堵する。

「あの場ではワタクシが必要だった。ワタクシに守らせてくれた、大切な存在を。そのための力を与えてくれた。貴方は、ワタクシが最も望むものを与えてくれたのよ? ディオには感謝しているくらいなのだから、自分を責めるなんてことしないで頂戴」

 優艶に花が咲き誇るような、鮮やかな笑顔。ディオールは眩しいものでも見るかのように目を細める。
 誰かに必要とされること。それは、ロコが何より欲し、願ったものだ。
 ディオールはゆっくりとロコに腕を伸ばし、そのまま抱き寄せるとその肩に顔を埋める。もう何度目になるかわからないこのやり取りは、二人にとってはお決まりのようなものだった。こうやって確かめ合うのだ、お互いの想いを。

「はは……敵わないな、ロコには」

 ディオールは腕の中にいるロコの温もりと、自分達の心音が重なるように脈打つその音色に安堵を感じた。それは、二人が生きているのだと証明する音だから。
 そう、生きているのだから。例え元は人形でも、自分自身が創った器であっても、それでも確かにロコは生きているのだ。物としてではなく、人として。
 ディオールは彼女を抱く腕に力を込める。それに答えるように、ロコも彼の背に腕を回した。

「ねぇ、ディオ?」
「うん?」

 ディオールは顔を上げ、腕の中にいる幼女の髪を優しく撫でる。ロコは嬉しそうに笑みを浮かべ、彼を見つめた。

「ワタクシは、幸せよ」
「うん」
「貴方が幸せなら、ワタクシは幸せ。だからディオ。ワタクシが幸せなら、貴方も幸せにならなければダメなのよ?」
「はは、すごい理屈だなぁ」
「当然よ。ワタクシの為に生きてくれると言ったじゃない」

 それはかつてロコを助けるためにディオールが誓った約束だ。
 今もそれは胸に刻まれている。忘れたりなんかしない。
 今度こそ、この約束だけは絶対に守り通すと誓ったのだから。

「そうだね。僕は君の為に生きてる。こんなに幸せなことはないね」

 ディオールが浮かべた笑みが、眩しいくらいに輝いていた。





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