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 冴は滴る汗が伝うのを感じ、我にかえってそれを拭った。
 ディオールの『デート』というものに付き合って歩き始めること数十分。冴は屋敷を出てすぐのことを思い出して小さく息をつく。
 凪に助けられてから一度も外へ出る機会がなかった冴は、外から屋敷の外観を眺めて唖然とした。その巨大さは城を思わせたほどだ。
 それはあまりにも不自然で異様な光景だった。荒んだ町には似つかわしくない違和感と存在感を放っているにもかかわらず、町人は誰一人としてこの屋敷を気にしている素振りがない。むしろ始めから見えていないのだという風に、誰もが素通りなのだ。
 冴はそれに首を傾げたが、町人にとってはすでに見慣れた光景だからなんだろうと勝手に結論付けることにした。

「ねぇ、どこへ行くの?」

 回想を断ち切って顔を上げると、ロコが楽しそうな笑みを浮かべてディオールに尋ねているところだった。冴はそれをぼんやりと眺める。

「市場だよ」

 ディオールの言った台詞に、冴は咄嗟に目を見開いた。
 見渡す限り砂漠が広がる大陸、和。熱と砂が人々の暮らす唯一の場所さえ奪い、荒廃が侵食し、荒んだ大地がどこまでも連なっている。
 そんな大陸での暮らしの中で、冴は今まで一度も市場になど行ったことはなかった。物を買うようなお金はなく、和の中でも僅かにいる中流階級の者達が出すゴミをあさったり、物乞いをして日々を凌いでいた。
 冴が暮らしていたのは、和の中でも一番荒んだ町の界隈だった。毎日人の死体が摘み上がって行くような場所。常に強い死の匂いを漂わせていた町。そんな場所で、冴は今まで生きてきた。
 だから、市場の存在や話は聞いたことがあっても、冴は実際に行ったことがない。
 和の中心都市で開かれる、週に一度の市。

「市場!? まぁ、ワタクシ和の市って始めてよ」
「うん、だろうと思って」
「冴っ、市場ですって! 楽しみね」

 ロコが後ろを振り返り、冴の手を掴んで振り回す。冴はそれに苦笑を浮かべた。

「楽しみじゃないの?」

 返ってきた表情に、ロコは首を傾げる。

「楽しみよ。ただ、凪も……」

 一緒なら良かったのに。冴は今ここにはいない人物を思い出し、表情を曇らせた。ロコはそれにハッとして冴の手を放し、隣に並ぶ。ディオールも自然、歩調を合わせた。
 出かける間際、冴は一応彼の部屋を尋ねてみた。けれどお約束というか、やはり返答はなく、冴はしかたなく凪をおいて屋敷を出たのだった。

「許可はとってきたんだし、凪のことは仕方ないよ」

 肩を落とした冴を宥めるようなディオールの言葉に、冴は薄っすらと笑みを浮かべ、小さく頷く。
 そんな雰囲気を変えるように、ロコが大仰に歓喜の声をあげた。

「まぁっ、これが和の市なのね!?」

 声につられて、冴もそちらに視線を向けた。たどり着いた市場の入り口前で、冴は目を見張る。
 路上に一列に連なった、テントのような幕。日を避けるために張られたそれらの下には、色々な食材が立ち並んでいる。やはり瑞々しい野菜や果物はほとんど見られないが、乾燥させた野菜はあった。他にも干した肉や魚などが並べられている。
 それでも冴の目を引くには十分で、ふらふらと店の前に誘われるように移動すると、僅かに目を輝かせた。

「……すごい」

 市場の話は人から聞いたことがあったが、想像していたよりも賑やかだった。

「やっぱり売ってるものはエレウスに比べれば少ないわね」
「というより、エレウスが異様なんだろう」

 ロコの呟きを拾ったディオールが、苦笑を浮かべながら答える。冴は二人の会話を聞いて、一番豊かである南の大陸、エレウスの市場を想像してみた。
 ここにある品よりももっと豊富に揃った食材。賑わい、活気のある人々。
 高級で品のある物品。
 まるでそれは、異世界のような光景だった。冴の知る世界とは、あまりにも異なり、うまく想像もできない。

「エレウスって、どんなところ?」
「ん? んー、まぁ、変わり者が多いね。悪趣味な私欲のために大金をはたくような輩ばかりさ。今この大陸で、あそこだけが切り離されたような、賑やかで無駄に華やかな大陸」
「でもその悪趣味のおかげで、ワタクシ達はこうして暮らしていけるのだけれどね」
「? どういうこと?」

 冴の問いに、二人の微苦笑が浮かぶ。反応はそれだけで、答えはなかった。

「まぁっ、何かしらあれ!」

 冴は二人の反応が気になったものの、何かを見つけて声を上げたロコに引っ張られ、問い返すことができなかった。

「冴っ、見て見て!」

 後から後から目移りし、ロコははしゃぎながらズイズイと人ゴミの中を掻き分けて行く。腕を引っ張られながら冴は必死についていくが、何度か人とぶつかった。

「ろ、ロコ。そんなに早く歩くとディオが……」

 着いてこれない。そう告げようとして後ろを振り返り、すでに彼の姿がないことに気づく。冴は瞬間、青ざめた。
 はぐれてしまったのだ。

「ロコ。ディオがいない」
「え? あら、ホント」

 しかし、冴の不安も吹き飛ばすような、あっけらかんとした答え。腰に手をあて、どうしようもない人ね、と呆れている姿は、自分達が迷子になったのではなくディオールが迷子になったのだと判断しているようだ。
 自分達からはぐれたことを指摘するべきかとも思ったが、真実を告げてロコを不安にさせる必要もないだろうと思いとどまり、冴はそれを飲み込む。
 とにかく、ロコはまだ幼いのだ。自分がしっかりしなければ。冴は自分に言い聞かせた。

「とにかく、捜しましょう」
「全く、世話が焼けるわね」

 ロコはやれやれと肩を竦める。
 自分達もはぐれてはいけないと、二人はしっかりと手を繋いでディオールを捜した。けれど、意外と人がいる場所で一人の人間を捜すのは容易くない。行き交う人々が邪魔をしてなかなか遠くまで見渡せないし、人の間をかいくぐって進むのはなかなか至難の業だった。
 ましてや始めて来る場所なだけに、歩き回っているうちに自分達がどちらから来たのかも判らなくなってしまった。

「参ったわね」

 ロコが小さく悪態をつき、冴も項垂れる。
 人込みから少し離れた路地裏で嘆息していると、それを見計らったかのように人影が近づいてきた。

「こんなところで何してんの?」

 下卑た笑い声。咄嗟に顔を上げた先に、数人の男達が立ちはだかっていた。薄汚れたみすぼらしい格好をして、明らかに下心のありそうな男達に、冴は咄嗟にロコを庇う。
 ここが治安の悪い大陸であることを、冴は瞬時に思い出す。こんな場所で、身なりの整った冴達に視線が行かないわけがない。おそらく市に入る前から目をつけていたのだろう。男達は確信めいた口調で言葉を紡ぐ。

「あんた達見たところここら辺の人間じゃないよな? その身なり、それなりに身分のある者だろ」
「金も持ってんじゃねぇの? なぁ、俺達と遊ぼうぜ」

 にたにたと気持ちの悪い笑みを浮かべ、一人の男が見定めるようにジロジロと冴を見つめる。冴はその視線に不快を覚え、ビクリと身を引いた。
 その仕草がまた男達の気を惹いたらしく、歓声があがる。

「見ろよ。怯えてるぜ?」
「へへっ、それにしても綺麗な女だな」
「別に怖がるこたぁねぇよ。ただちょっと俺達につき合ってくれればいいんだからさ」
「冴ッ!」

 ロコを庇っていた冴の腕を引っ張り、男がそのまま肩に腕を回す。急に男の体が迫って、冴は短い悲鳴を上げた。ガタガタと震える身体を必死に押しとどめようとするが、うまくいかない。

「あーあー、こんなに震えちゃって」

 そうしている間にも、別の男に腕を捕まれ、完全に逃れられない状況に追い込まれていた。

「や……っ」

 冴はやっとの思いで抵抗を試みる。だがそれも、男達の欲望をかきたてるだけに終わった。にたにたと卑俗な笑みが間近に迫り、冴はそうとは知らずますます抵抗する。

「ちょっと、貴方達! 冴を放しなさい!!」

 恐怖に引きつる冴を助けようと、ロコが怒声をあげた。甲高い声を張り上げる幼女に、たかが子どもの喚きと、一人の男がバカにするような声を上げる。

「お譲ちゃん、勇ましいねぇ。でもガキに用はねぇんだよ。帰ってママの指でもくわえてな」
「なっ……!」

 ロコは怒り露に、思いきり男の脛をけり飛ばした。完全に油断していた男は、予想外の衝撃に低く呻る。

「……っのクソガキ!! ぶっ殺してやる!」

 男が逆上し、怒りの形相を浮かべてナイフを取り出すと、その切っ先をロコに向けた。切れ味のよさそうな刃が、ロコに迫る。

「ロコッ!」

 冴の悲鳴が、辺りに響き渡った。





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