[ 佇む二つの影。 緊迫する空気。 距離を縮める靴音に、凪は息を呑んだ。体勢が悪すぎる。 突然凪の身を襲った不意打ちの攻撃。一瞬避けるのが遅れ、凪の腕をかすめたが、幸いたいした怪我ではなかった。けれど、変わりに抉られた壁はぶち抜かれ、騒音を立てて崩れていく。 そんな恐るべき破壊力を見せつけた彼は、凪の血を滴らせながら目の前に静かに佇んでいた。 凪の前に佇む青年。 藍色の髪にグレイの瞳。長身の男のその瞳には、光など全く宿っていなかった。青年は無表情のまま、まるで操り人形のように正気が感じられない。 「逃げてばかりじゃ、つまらないよ」 青年の後ろで静かに佇む少年。薄っすらと笑みを浮かべた彼は、じっと凪の行動を見定めるように傍観している。 「ドールを完成させたんでしょ? 使えばいいじゃない」 凪はその言葉に少年を睨みつける。腕を抑えながら、肌を刺す緊迫感に薄っすらと汗を浮かべた。 「……頑固だね、凪・リラーゼ」 鼻で笑うように、少年がクツクツと声を上げる。 青年は次の攻撃を繰り出そうと構えを取った。鋭い爪が煌く。 凪が舌打ちした。 「凪……っ!」 しかし、二度目の攻撃が凪にふりかかる手前で、悲鳴混じりの声が辺りを支配した。それは思いのほかこの広い廊下に反響し、それによって瞬間、青年の動きが止まる。凪は見なくとも、それが誰の声であるのかすぐに理解した。 廊下に佇む、一人の少女。冴が青ざめた表情を浮かべ、口元を手で覆いながら驚愕している。 息を切らせているところを見ると、走ってきたのだろう。凪は再び舌打ちした。 「……ドール? へぇ、綺麗な人形」 凪と青年から少し離れた所に佇んで二人の交戦を傍観していた少年が、冷たい笑みを冴に向けた。それと同時に、青年の関心もそちらへ移り、完全に冴の方へ向き直る。 凪はそれにハッとし、声を張り上げた。 「逃げろっ!」 「戎夜」 凪と少年が口を開いたのは同時だった。 凪は言葉と共に地を蹴る。青年も少年の言葉に続くように地を蹴った。 早さはやや凪の方が早く、冴に向けられた青年の攻撃から守るように彼女の前に出る。 「……っ!?」 「庇った?」 少年の驚きを含んだ声と、冴が目を見開くのは同時だった。 目の前で広がった光景。 冴は一瞬、何が起こったのか解らなかった。一拍おいて、喉の奥から這いあがってくる悲鳴。 青年の尋常ではない鋭利な爪が、凪の横腹に突き刺さり、裂くようにそれを引き抜く。飛び散った鮮血が、辺りにふりかかった。 「凪ッ!!」 床の上に崩れ落ちた凪の身体を支え、瞬間、手に張り付くその感覚に身体を震わせる。 血。大量に流れ出す、鮮血。 「い、いや……う、そ……?」 認識した途端、手が震え、身体が震え、冴は自分の手と凪を交互に見比べながら、首を振った。 広がる血の海。 血、赤い血。鮮血。 このままでは、凪が、死ぬ。 死――――――? 「っ……!」 冴は蹲る彼を抱きしめるように庇い、精一杯の虚勢で、その手を凪の血で染めながら静かに佇んでいる青年を睨みつけた。 身体の震えはおさまらない。 怖い。何が起こっているのか解らない。 何で凪がこんな目にあっているのかも、この青年や少年が誰なのかも。 何で、何で…… 凪がこんな目に合わなければならないのか。 「こ、こないで! それ以上近づかないでッ! 凪に触らないでえぇっッ」 凪を抱く腕に力を込める。血が止まらない。 凪の意識が段々と薄れていくのがわかる。それと同時に、呼吸が弱くなるのも。 死んでしまう。本当に、このままでは死んでしまう。 喘ぐような呼吸。痛々しい姿。 あの美しい凪が、ボロボロになって、自分を助けた。 庇ったのだ、冴を。 あれだけ関心のなかった冴を、その身を挺してまで守ったのだ。 なぜ…… 冴は思う。自分はドールだ。致命傷を負っても死にはしない。ドールに与えられたその自然治癒の高さによって、傷は驚くほど早く完治する。 それなのに、なぜ凪は冴を庇ったのか。 「何で庇う、ドールを。何でドール化させない?」 少年の苛立ちを含んだ声音。 彼の荒い口調に、ピクリと青年が反応した。見下ろすその瞳は、冷たい。感情など持ち合わせていないとでもいうように。意思などどこにもないかのようで。ただ命令を消化するだけの、完全なる操り人形であるかのように。 青年はその手に付いた血を降り払った。煌く爪が覗く。 冴は息を呑み、凪の前に出た。両手を広げ、これ以上は行かせないと示すように。凪には指一本も触れさせないと、抗うように。 青年が、地を蹴る。冴は、強く目を瞑った。 「ロコっ!」 しかし、向けられた青年の鋭利な爪が冴に突き刺さることはなく、代わりに聞き慣れた声が辺りの空気を震わせた。続いて乾いた音が響き渡る。 冴は咄嗟に目を開け、目前の光景に息を呑んだ。彼女の前へ立ちはだかった、見慣れた少女の姿。十にも満たない幼女、ロコ。 彼女が、成人を向かえているであろう青年の攻撃を受け止めて、しかも逆に弾き飛ばそうとしているのだ。それは、普通ではありえないような光景だった。 それでもロコは、攻撃を受け止めた腕を思い切り薙ぎ払う。 攻撃を相殺され、その衝撃で青年が怯んだように数歩下がった。ロコがその間に構えをとる。 「……ろ、ロコ?」 くるりと緩く巻かれた髪が揺れる。その容姿を、見間違うはずはない。 それは紛れもなくロコで、けれど、冴の知っている彼女ではなかった。 冴が呼びかければ、形はどうであれロコは必ず反応を見せる。だが今は、それがない。 横顔は酷く冷たい表情。対峙する青年同様に、まるで感情などないかのよう。それこそ、本当の人形であるかのような。 「冴ちゃん! とりあえず凪の止血をっ」 いつのまにか冴の横に立ち並んでいたディオールが、切羽詰ったような表情で冴に指示を出す。 冴はそれに慌ててロコから視線を外すと頷き、震える手でどうにかスカートの裾を破くと、腕と腹部の止血をした。凪が蹲っている辺りには、小さな血溜りができている。 冴は奥歯を噛み締め、必死に震えと涙を留めた。 「やっぱり出てくるんだね、ディオール。何で庇うの? そんな奴をさ」 その光景を冷たく見つめながら、少年が嘲笑した。見かけは十三、四歳くらいの少年だ。肩まで伸びた金髪に、翠の瞳。真っ直ぐに向けられた瞳は、新緑の森を思わせた。 しかし、浮かべる表情と、彼に纏わりつく雰囲気が、彼を子どもには見せない。それは全てを悟ったような、全てを憎むような、表情。 「一方的に攻撃するなど、黙って見過ごせることじゃないっ。なぜ傷つける必要があるんだ!」 「解らないかなぁ? 見定めるためだよ。あんた達を見定めるため。だから少し黙っててくれないかな。ディオールのドールにはあんまり傷をつけたくないし、本気でやるとなると戎夜だって無事ではすまないからね」 言いながら、少年はニヤリと笑みを浮かべた。それに答えるように、青年がロコに向かって拳を飛ばす。ロコはそれを軽やかに避け、冴から少し離れた場所へ後退した。 その瞬間を見逃さずに、青年が冴達に向かって再び攻撃を仕掛ける。冴は瞬間、凪を庇うように抱きしめた。 もはや避ける術などない。今度こそ、その刃は冴に突き刺さるだろう。 「やめろ、オルビスッ!」 「遅いっ」 ディオールの怒声と、少年の声が重なった。冴は強く目を瞑る。 けれど。 身体を襲った衝撃は、鋭い痛みではなく、突き飛ばされるような鈍く、軽いものだった。冴は想像していたものと異なった衝撃に、思わず瞳を開ける。そのまま、大きく見開いた。 それはまるでスローモーションのように、一連の動作をゆっくりと見せる。 冴の身体を衝き飛ばした、凪の手。己の血に染まったその腕が、冴に向けられていた。ほとんど意識のない中で、それでも、凪は冴を庇ったのだ。 瞬間、冴は何かが頬を伝うのを感じた。自分の身体が傾くその様が、やけに遅い。 突き刺さるはずだった盾をなくし、爪はその先にいる人物に向けられる。 「っ……!」 突き飛ばされ、地面に叩きつけられた衝撃から、時間は通常の早さで流れ始めた。少なくとも、冴にはそう感じられた。打ち付けた痛みに構うことなく、冴は瞬時に身体を起こして顔を上げる。 「な……ッ」 視界に飛び込んだ、それ。 自分を襲うはずだった青年の鋭い爪は、深々と凪の肩に食い込んでいた。 |