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 振りほどかれる手。
 向けられた背中。
 伸ばした腕は、いつだって何も掴んではいなかった。
 ただ絶望と、失望と、失意と、憎悪だけが、その身体に残った感情の全て。
 ドーマは、異端。
 その力は、異質。
 この世に生み落とされた、異分子。失敗作。
 不完全な、人間。
 それ故に、抱えるものは『傷』などという一言では言い切れないほどの、混沌とした深い『闇』であった……―――――





 突き刺さった爪が引き抜かれ、続くように飛び散った鮮血。
 ゆっくりと傾ぐ身体。
 冴の思考は、今度こそ停止した。悲鳴も喉に張り付いて、それ以上は出てこない。ただ流れ続ける涙が、彼女がその光景を見ている唯一の証であった。
 完全なる悪夢。
 凪の身体が、床に崩れる。
「な……ぎ……?」
 冴は目を見開いたまま、涙を零したまま、倒れた凪を凝視した。
 凪はピクリとも動かない。何度呼んでも。名を叫んでも。
「凪……?」
 冴は立ち上がり、フラフラと安定悪く凪の傍へ駆け寄ると、そのまま彼を抱き起こした。
「う、そ? うそ……でしょう? 凪? い、ぁ……いや、嫌よ……っ」
 何度も呼びかける。何度も何度も。それでも、凪は応えない。
 反応はなく、呼吸でさえもか細く頼りない。喘ぐ体力もないかのようで。
「凪ッ! いや……いやあぁぁっッ、凪!!」
 死んでしまう。本当に、凪が死んでしまう。冴は彼を抱く腕に力をこめる。
 失うわけにはいかない。失いたくない。
 凪を失えば、彼がいなくなってしまえば、冴は全てを奪われる気がした。それはこの世の終わりであるかのような恐怖。絶望。
「……やっぱり庇うんだね。ドールを」
 そんな光景を冷静に、むしろ興味深げに眺めながら、少年が言葉を零す。それと同時に、佇んでいた青年がまるで糸が切れたかのようにその場に崩れ落ちた。意識を失ったように倒れこみ、こちらもピクリとも動かない。
 それに続くように、ロコもその場に倒れこんだ。床に落ちる身体を、ディオールが受け止める。その表情は、あまりにも悲痛なものであった。
「ごめん、ロコ」
 ディオールはロコを脇に寝かせ、頭を垂れる。それを振り払うように頭を振りながら立ち上がると、冴の傍に駆け寄った。肩に手を置こうと手を伸ばし――――――
 その瞬間、乾いた音と共に、それが弾かれた。
「いやぁぁッ! こないでっ、触らないで!」
 同時に冴の絶叫。ディオールはそれに軽く動揺した。目を見開き、自然、動きが止まる。
「触らないで! これ以上傷つけないでっ! やめて……やめてぇぇっッ!」
 弾いたものが、ディオールの手であった事実など、もはや冴にはどうでも良かった。その行為で、彼が少なかれ傷ついたとしていても、今の冴には、凪だけが全てだった。
 酷いパニックを起こしているこの状況で、まともな思考は働かない。ディオールが敵か味方かの判別も出来ないほどに。
 全てが敵であるかのように見え、冴は、その全てのものから凪を守ろうと頑なになっている。
「冴ちゃん……? 僕だっ、ディオだ! 解らないのか!?」
「こないでぇぇっッ!!」
 混乱している冴に、ディオールは必死に説得を試みる。だが、まるで意味をなさない。
 冴は首を振り、凪を庇い、頑なに全てを拒もうとする。
 何も見ない。何も聞こえない。
 完全なる拒絶を見せて。
「凪ッ! 凪……っ!!」
 とめどなく流れる涙を拭うこともせず、冴は必死に名前を呼んだ。震える手で止血を試みるも、うまくいかない。血は止まらない。
「い、ぁ……止まらない。なんで? なんで……止まって、止まってよ! 血がこんな……こんなっ」
 弱くなっていく呼吸。下がっていく体温。
 近づく、死――――――
「ダメ、やめてっ! いやよ、嫌……やああぁぁっッ!!!」
 這い上がってくるそれは、恐怖。
 言い知れぬほどの絶望。
 冴の中の何かが、警鐘を鳴らしている。


 彼を失ってはいけない


 彼の死によって、全てが終わる。冴の全ても、終わってしまう、と。
 冴は凪を抱きしめたまま絶叫する。涙が頬を伝っても、凪の血が全身を染め上げていっても、冴は決して凪から手を離さなかった。
「……な……」
 その叫びに応えるように、息も絶え絶えに凪が声を漏らす。冴はその蚊の鳴くような弱弱しい声を聞き取り、動きを止めた。
「凪……?」
「く……泣く、な……」
 凪は苦しそうな表情を浮かべながらも、血に塗れた手を伸ばし、冴の頬にそっと触れる。
「な……っ」
 冴がハッとして凪の手を掴もうとするが、しかしそれより先に伸ばされた手が離れ、ゆっくりと降下していった。



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