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――――――お前の部屋だ。自由に使え……


 降ってきた声と共に広がったそこは、『居場所』だった。
 自分を死に追いやるものなど何もない、安全な居場所。
 自分のためだけの、空間。
 その時冴は、許されたような気がしたのだ。
 混乱している中でも、状況が何一つ解らなくても、ただ、胸の奥底で感じた自分自身にでさえ解らないような安堵。
 ここにいてもいいと、必要なのだと、言われたような気がして。
 常に隣り合わせだった死との恐怖に、もう怯えなくてもいいのだと告げられたような気がして。
 それが例え偽善でも、ただの義務だとしても、その安堵を、安心を与えたくれた凪だけが全てだった。今の冴には、彼が絶対だった。
 そう、全てだったのに……――――――





「な……ぎ……」

 静かに流れた一筋の涙。
 その後を追うように開かれた瞳に気づき、青年は冴の顔を覗き込んだ。

「凪……?」

 うっすらと開かれた、光の灯らない瞳。泣きはらした目元は、誰が見ても痛々しい。

「凪ッ!」

 冴は意識の覚醒と共に、視界に広がった影を見つけ、即座に起き上がった。だが、目の前にいた人物を捉えた双眸は、驚愕に見開かれる。

「ッ――――――!」

 安堵と困惑の色を浮かべた、グレイの瞳。忘れられるはずのない顔が目の前に現れ、冴は擦れた悲鳴を上げながら後退した。一気に彼女の中を駆け巡った激しい憎悪と恐怖。しかし、背中に軽い衝撃を受け、残酷にも逃げ場がなくなったことを知る。

「……っ」

 冴は歯噛みし、この状況からの打開策を必死で思案する。
 目の前にいる、青年。彼こそ、無慈悲なまでに凪を襲った人物その人だ。

「何でっ、ここに……」

 混乱する思考の中でも、冴はこの部屋が自分のものであるという判断はできた。

「凪は……ッ!?」

 なぜこの青年が自分の部屋にいて、目の前にいるのか解らない。それに、瀕死の重体を負った凪は、一体どうなったのか。なぜ自分はベッドの上で目覚めたのかも……途中から記憶が無い。

「お前のドーマならば無事だ」

 青年に問い掛けたつもりはなかったが、律儀にも彼はそれに答え、ベッドの横に置かれていた椅子に腰を落とす。その台詞に、ピタリと冴の動きが止まった。

「お前のドーマが倒れた後、お前もそれを追うように気を失った。半日ほど眠っていたんだ」

 言い聞かせるように、一言一言ゆっくりと現状を説明する青年の顔を、冴は静かに凝視する。

「お前のドーマも、今は自室で眠っている。オルビスと南のドーマが手当てをして、命に別状はない」
「っ……本当、に……?」

 告げられた事実に、冴は溢れ出す感情を抑えることができず、情けない声をあげた。
 凪は無事。生きている。その事実が、どれほど冴を安堵させただろう。
 もう駄目かと思った。失うのではないかと絶望もした。けれど、凪は生きている。こんな朗報があろうか?

「……すまない」

 涙を溜め、それを堪えるようにしゃくりあげる冴を見つめ、青年は静かに呟いた。思わぬ台詞に、冴は青年を凝視する。見開かれた双眸に映った彼の表情は、悲痛を浮かべていた。
 あの冷徹なまでの連撃。感情など無いのだと思わせるような冷たい瞳を持った青年が、今、冴に詫びている。全く人が変わったような雰囲気と態度に、冴は少なかれ狼狽した。

「あそこまで傷つけるつもりはなかった。お前の気持ちは痛いほどわかる。だが、俺は命令には逆らえない」

 青年は頭を垂れた。翳る瞳。
 それを目の当たりにし、冴は肩の力が抜けていくのを感じた。彼に対しての怒りは消えない。けれど、一概に責め立てることが、なぜか躊躇われたのだ。

「俺も、ドールだからな」

 紡がれた事実に、冴は絶句した。彼も、ドール?

「俺は西のドール、戎夜(ジュウヤ)」
「西……」
「俺達は決して、無意味にお前のドーマを傷つけたわけじゃない。詳しい理由は俺にも解らないが、オルビスは意味のないことは絶対にしない。だから、許してやって欲しい」
「オル、ビス……?」

 冴は首を傾げ、小さくその単語を呟く。記憶の端で、誰かが叫んだそれ。

「僕の名前だよ」

 問いかけに応えるように返ってきた突然の声。冴はビクリと肩を揺らし、ゆっくりと声のした方へ視線を移す。
 金の髪に、翠の目。褐色気味な肌を持った少年が、扉に背を預けるようにして佇んでいた。目が合うと、彼はにっこりと笑みを浮かべ、冴の元へ近づいてくる。

「紹介が遅れたね。僕は西のドーマ、オルビス・ジェンファ」

 悪のない笑み。こちらも先ほど見た時とは全く印象が異なり、冴は思わず固まった。

「君は東のドーマのドールでしょ? 名前は確か……」

 何だっけ、と首を傾げ、戎夜を見上げる姿は、どこをどう見ても幼い少年そのものだ。まだ十三、四歳といった彼が、凪やディオールと同じドーマなどと、とてもじゃないが思えない。

「『冴』だ、オルビス」
「あぁ、そうだったね。冴だ、冴。いい名前だね」

 戎夜が事も無く告げ、それにパンッと手を叩くオルビス。にっこりと笑みを浮かべながら、彼は冴の腕を取ると手の甲にキスを落とす。以前ディオールにされた時と同じく、それが挨拶だと理解するまでやはり数秒かかった。

「っ……」

 目の前にいるのは凪を襲った者達なのに、冴はおもわず頬を染めた。女性扱いされるのには慣れていないのも加え、このような突発な展開には免疫が無いのだから仕方が無い。
 それに、全く敵意が感じられないこともあり、冴の警戒心は薄れていくばかりだ。

「突然ビックリしたでしょ。ごめんね?」
「え……っ?」

 子ども特有の愛らしさを含み、首を傾げて見せるオルビスに冴は怯んだ。予期せぬ台詞に虚を衝かれた気分だ。
 ドールがドールなら、ドーマもドーマだ。二人とも事も無げに突飛な発言をかましまくってくれる。

「でも、冴が何であんなに取り乱したのか、僕にはよく解らないんだ。凪・リラーゼが死ぬとでも思ったの?」

 思いもよらぬ問いに、冴は目を剥く。彼の口調はまるで、凪が死ぬわけがないとでも言っているようだった。

「……ふぅん。ホントに何も知らないんだね。いいよ、教えてあげる。致命傷を受けながら、凪・リラーゼが死なかった理由をね」





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