V





 ずっしりと、身体が重たい。
 肺が押しつぶされるような感覚に、少女は思わずせき込むと、薄っすらと瞼を上げた。途端に視界に飛び込んだのは、叩き割られた花瓶の破片と、絵の具を溶かしたような紅。
 散った花がその紅に沈み、白い花を真紅に染めていく。
 あぁ、全部、夢だったのだ。少女は諦めにも似た笑みを浮かべた。今までの幸福な記憶は、全て夢。現実をホンの少しの間忘れることができる、己の望む幸せな世界。

――――――だって、ほら……聞こえる

 自分を罵倒する声。
 傷口をさらに抉るような鋭い痛みを与える旋律。
 己が無力であることを痛感させられ、不必要なのだとつきつけられる現実。
 自分はこの世には必要のなかった存在で、ただの厄介者で、重荷で……
 夢が覚めた時、そこには恐怖する現実だけがあって。夢も希望も、倖せと呼べるものは何一つない世界。欲しい物は何一つ手に入らない。たった一つだけなのに。望むものは一つだけなのに、その一つが手に入らない。どうしても、どうやっても。
 だからこそ、少女は絶望に付き落とされ、希望を断ち切られ、夢から覚めなければならなかった。
 混濁する意識の中、少女は紅色に染まる花びらに手を伸ばす。ぬるりとした生温かいその紅に手を浸し、震える手ですくい上げる。だがその瞬間、手首に痛みが走った。

『まだ、生きてるのか』

 まるで踏みにじるように。嘲笑うかのように。
 声と共に降ってきた足が、少女の腕を力強く踏みつける。何度も何度も。

『っ……』

 少女は途端に悲鳴を上げる。けれどそれは喉の奥に張り付き、擦れ、荒い息となって口から漏れるだけで声にはならなかった。もはや抗う体力など残っていない。
 ただ、痛かった。全てが。腕も、傷口も、心も。
 毎日を踏みにじられながら、屈辱に耐えながら、ただ道具のように使われ意味もなく生きる。そんな世界にいる理由が、どこにあるのだろう。それでも生きている自分は、一体なんのために在るのだろう。
 何度も殺されかけたことはある。死ぬのだと覚悟したこともある。けれど、いつもギリギリのところで生き延びる。それは、自分を殺しかける者が、決まって止めを刺さないからだ。まるで先の見えぬ『死』というものを垣間見せるように。恐怖を煽るように。
 そしてその恐怖を味わうたびに、少女は願うのだ。近づく死を遠ざけるように、たった一つの望みを夢見て、叶わぬ願いを想像して、醜く生に縋りつき、少女は全てを諦められなくなる。
 もしかしたら……
 もしかしたら、手を伸ばし続ければ、いつか誰かが掴んでくれるかもしれないという奇跡を求めて。終わりとは遠い、どこかへ連れて行ってくれる誰かが現れることを夢見ることで、全ての恐怖に耐えてきた。
 少女は腕の痛みを忘れるように、瞳に涙をためて、ゆっくりと目をとじる。
 ただ、一人でいい。一人だけでいいから、必要として欲しい。
 そう、願いながら……


――――――生きたいかい?


 ふと、身体が軽くなったのに気づいて、少女は目を開ける。瞼を上げるなり広がった、まるで陽光が輝くような眩しさに、咄嗟に目を細めた。
 感じるのは、日溜りのような温もり。
 少女は、ゆっくりと目線をずらし、声の主を見つける。優しい眼差しと出会って、思わず目を見開いた。


――――――独りが厭というのなら、僕が君を必要とする


 何を言っているのだろう……少女は一瞬耳を疑った。身体に染み込むような温かさに、知らず知らず涙がこぼれる。
 ただ一人。たった一人でいい。
 必要だと言ってくれる誰かが、欲しかった。ずっと、欲していたもの。
 少女はじっと声の主を見つめた。彼の瞳には、曇り一つない、綺麗な深海の色が煌いている。どこまでも深く、綺麗なその色に。その温かな眼差しに。思いが溢れた。
 あぁ、これだったのだ。
 少女が求めていたものは。今までこの世界に在り続けていたのは、この時のためだったのだ。
 彼女は震える手を懸命に伸ばして、精一杯、力いっぱい、彼の服を掴んだ。意思を示すように。
 貴方のために、生きたい、と。





 自分の頬を何かが伝う感覚に、ロコは目を覚ました。
 ゆっくりと双眸を開き、まどろむ意識を徐々に覚醒させていく。視界が捉えたワインレッドに一瞬ビクリと身を振るわせ、それがカーテンの色だと気づくと、安堵したように息を吐き出す。
 今見ていた方が夢だったのだと知ると、ロコは脱力感に襲われた。今でも、現実と錯覚してしまうほど鮮明な夢……それは、過去。

「ワタクシ、どうしてベッドに……」

 ロコは気持ちを切り替えるように軽く頭を振り、意識がはっきりしてきたところで上体を起こし、辺りを見渡す。
 そこが、今借りている自分の部屋だと理解するのに時間はかからなった。だが、自分が眠った記憶は、ない。

「……ディオ?」

 まるで親とはぐれた子どものような弱々しい声で何度か呼び続け、ディオールがいないことを知ると、ロコは僅かに肩を落とした。
 仕方なく、自力で記憶を手繰りよせることにする。しばらく考え込んで、市場へ行った帰りに、屋敷から轟音が聞こえ、それから咄嗟に駆け出した冴を追いかけたところまでを思い出した。だが、それも途中までだ。冴の姿を見つけた途端、意識が途切れて―――――
 そこで、ロコはハッとする。

「ディオが、ワタクシを……」

 答えに行きつき、僅かに表情を固くした。どうりで途中から記憶がなく、随分と見なかった過去の夢をみたわけだ。納得の色を見せながら、彼女は飛び下りるようにベッドを出て、扉に駆け寄る。

「でも、あなたは悪くないのよ、ディオっ」

 叫んで、ロコは廊下に飛び出した。





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