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 間隔的に設置されている廊下の窓を開け放ち、外を見つめるディオールの視線は遥か遠い。浮かぶ表情も、どこか苦しそうな笑み。相当無理をしているのだろう、それでも彼は笑おうとする。そうしなければ、耐えられなかった。
 荒れた大地は、ディオールを慰めるどころか逆に苛める。彼はそのまま崩れるように床に蹲った。壁を背に、項垂れる。

『私は、貴方の笑った顔が一番好きよ』

 それは、最愛なる者にいわれた言葉。
 唯一褒めてくれたことだから……どんなに自分が辛くても笑おうと決めていた。
 どんな時でも、どんなに辛くても、笑って乗り越えようと。今のディオールがあるのは、その言葉のおかげだから。だから、こんな風に無様な表情をしているわけにはいかないのだ。
 こんな情けない顔、すぐに消すから。大丈夫だから。ディオールは自分に言い聞かせる。
 現実から目をそむけるわけにはいかない。きちんと向き合うためにも、ロコを心配させないためにも、ディオールは笑おうとする。
 それなのに……
「どうしてだろう。うまく、笑えないんだ」
 歯がゆく、焦りばかりが募る。
 ディオールは頭上にある窓から、空を仰いだ。そこには、やはり荒んだ光景だけが広がっていた。




 長い回廊を駆けぬけ、ディオールの姿を捜してさまよう少女は、息が上がり足を止めた。どこへ行ったのか、自宅でない分見当がつけられない。
 借りている部屋を覗いてもいないし、とりあえず一階を普く見て回ったものの、彼の姿はない。
「どこに行ったの? ディオ……」
 ここが自宅であれば、おそらく彼は頻繁に足を運ぶ庭、花園にいることだろう。ディオールは花を愛でるのが好きだった。多種多様の花をいつも愛しそうに眺め、育てるのを趣味にしている。
 エレウスは豊かな大陸だけあって、緑も豊富だ。色とりどりの花や草木がある。
 けれど、この屋敷にそんな洒落た場所はない。まともな植物すら見当たらないこの大陸の屋敷に花園などがあれば、それはそれで異様だが。
 ロコは大分落ち着いてきた呼吸を確かめ、再び地を蹴った。
 一階にいないのなら二階にいるのかもしれないと、上に繋がる階段に足をかけたところで、彼女ははたと動きを止める。
 どこから吹き込んできたのか。微かな風がロコの髪を撫で上げた。どこかの窓が開いているのだろうか。彼女は違和感を覚え、視線をさまよわせるとある一点で視線を止めた。
「ディオ……」
 自ら風に打たれているのか。廊下の窓を開け放ち、壁に背中を押し付けて座り込んでいる捜し人、ディオールがそこにいた。彼の姿を認めると、ロコは安堵を感じて溜まっていた息を吐き出す。
「こんなところにいたの」
 ゆっくりと近づき声をかけると、ディオールは虚ろに面を上げた。
「……ロコ」
「逃げるのが上手いわね。随分捜したんだから」
 ワザと軽い調子の物言いをするロコ。その彼女らしい気遣いに、ディオールの瞳が一瞬翳る。
「いつも笑っているディオがそんな顔をすると、こっちまで笑えなくなってしまうわ」
「ごめん」
 彼の顔に苦渋が浮かんだ。
「ごめん、ロコ。僕は……」
 ロコの過去を唯一知るディオールは、彼女を傷つける対象やそれに繋がる事象には過剰なほど敏感に反応する。普段は何食わぬ素振りをしているが、心中では常にロコを中心に物事を考えているのだ。
 傷つけないように。これ以上傷つかなくていいように。
 だから余計に、彼女を『使った』という事実は、ディオールにとっては重くのしかかる。今まで彼女をドール化させたことがなかったわけではない。けれど、極力その力は使わないようにしてきた。それはロコが嫌がるからではなく、彼が厭だったからだ。
 それなのに彼女をドール化させたのは、ロコが大切にしている少女を守りたかったから。ディオール自身が庇うこともできあたが、そうすると最悪彼が傷つくだけでなく、庇いきれずに冴達までまき込む可能性もあった。
 もしあの時ディオールが動けないほどの傷を負っていれば、事はよりいっそう悪い方向へ傾いていただろう。だからこそ、あの場は防戦に適したロコをドール化させるより他になかったのだ。何より、操る際に躊躇することのないオルビスのドール、戎夜は強い。
 でもだからといって、「仕方なかったんだ」なんて言い訳をしたくなかった。ドール化させた事実は変わらない。それがどんな理由であれ。ディオールは深く肩を落として俯く。
 そんな彼を見つめながら、ロコは小さく肩を竦めた。呆れたような響きを含んだ吐息に、ディオールは僅かに肩を揺らす。
「……ディオがワタクシを物として見ていないことは、ワタクシが一番よく解っているわ。貴方がそういう見方をするのを嫌う人だということも、ちゃんと知っている」
 けれど、紡いだ彼女の言葉に、ディオールを責める単語は含まれていなかった。予想していた発言と異なり、彼は咄嗟に顔を上げてロコを凝視する。
「だから、貴方が責任を感じる必要はないのよ? オルビスじゃないけれど、なぜそんなに自分を責める必要があるの? ディオ、貴方はワタクシを『使った』のではないわ。冴達を守るという役目を与えてくれたの。ワタクシは必要とされたの。あの時、ドール化したワタクシがどうしても必要だった。そうでしょう?」
 ロコは膝をつき、ディオールの頬を包みこむように手を添える。その泣きたくなるような優しい眼差しに、彼は目を見張った。
「あの場ではワタクシが必要だった。ワタクシに守らせてくれた、大切な存在を。そのための力を与えてくれた。貴方は、ワタクシが最も望むモノを与えてくれたのよ? ディオには感謝しているくらいなのだから、自分を責めるなんてことしないで頂戴」
 優艶に花が咲き誇るような、鮮やかな笑顔。ディオールは眩しいものでも見るかのように目を細める。
 誰かに必要とされること。それは、ロコが何より欲し、願ったものだ。
 ディオールはゆっくりとロコに腕を伸ばし、そのまま抱き寄せるとその肩に顔を埋める。気にすることはないのだと。ロコの言葉が胸に沁みるようだった。
「はは……敵わないな、ロコには」
 ディオールは腕の中にいるロコの温もりと、自分達の心音が重なるように脈打つその音色に安堵を感じた。それは、二人が生きているのだと証明する音だから。
 そう、生きているのだから。例え元は人形でも、自分自身が創った器であっても、それでも確かにロコは生きているのだ。物としてではなく、人として。
 ディオールは彼女を抱く腕に力を込める。それに答えるように、ロコも彼の背に腕を回した。
「ねぇ、ディオ?」
「うん?」
 ディオールは顔を上げ、腕の中にいる幼女の髪を優しく撫でる。ロコは嬉しそうに笑みを浮かべ、彼を見つめた。
「ワタクシは、倖せよ」
「ロコ……?」
 突然の言葉に、ディオールは不安そうに瞳を揺らしながら、続くであろう彼女の台詞を待った。
「貴方が倖せなら、ワタクシは倖せ。だからディオ。ワタクシが倖せなら、貴方も倖せにならなければダメなのよ?」
 視線を受け止めながら、ロコは確かめるように問い、笑みを湛える。ディオールは目を瞬いた。

――――――だから早く、いつものように笑って頂戴

 そう言われたような気がして、ディオールは一瞬呆けた。けれど次いで零れた笑み。
「あぁ、そうか」
 それに気づいて、気づかされて、自然と笑みが深まった。今自分は、笑っている。笑えている。自然な笑みが、浮かんでいる。
 この目の前にいる幼女に与えられた言葉で。彼女がいるだけで、簡単に笑みを取り戻すことができるのだ。
「そうだね、凄く倖せだ」
 だからこそ。ディオールは彼女のためだけに、満面の笑顔を浮かべて見せた。



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