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 視界に広がるのは、紅。
 その紅が行く手を阻み、先に行くことが叶わないことを悟ると、少年は愕然と膝をおった。
 先には、大切な人。
 姿さえ判らずに、助けることもできなかった。
 彼を止める青年の叫び声と、全てを飲み込んでいく炎の音だけが耳に残る。
 何もできず、何も見えない。見たくない現実。
 全てを失った瞬間を、少年が忘れることなど決してない。
 けれどその事実を受け止めるには、彼はあまりにも弱すぎた。

 ……壊れてしまうくらいに

 だからこそ身体を造り、少年は待ち続けたのだ。
 死を恐れ、死を垣間見た、あの孤独な少女を――――――





 喉の渇きに呼吸が苦しくなり、咽るようにして凪は目を覚ました。
 はっきりしない意識の中、妙に右手が温かいことに気づき視線を彷徨わせる。いつもの見慣れた天井から徐々に目線を下げていき、ある一点でそれが止まる。
「……」
 視線が捉えたその先の光景に、凪は僅かに目を見開く。
 そこには、自分の手を握り締め、ベッドの上に頭を伏せて眠っている冴の姿があった。それを理解して僅かに眉を寄せると、すぐさま視線を外す。
 同時に理解しがたい動揺が彼を襲い、誤魔化すように吐息すると、後を追うように傷口が疼く。それに悪態をつきながら、凪はゆっくりと瞼を閉じた。
 どれくらい眠っていたのか解らないが、冴の様子からして恐らく一日二日は過ぎていると見て間違いはない。彼女はその間もずっと付き添っていたのだろう。
 凪は右手を意識しないように、思いをめぐらせる。
 まるで釘を刺すために見せたような夢の内容。
 思い出したくもない過去を突きつけられ、凪はそのタイミングのよさに失笑した。

 ワスレルナ……

 それはまるで呪いのように。
 忘れることを赦さない。
 今更、後戻りなどできないのだから、と。
 凪が望むものは唯一つ。それを手にするために彼女を、冴を見つけ出した。
 彼女が必要だから、待ち続けた。長い時間を生きてきた。
 必要な要素は全て揃い、あとは実行する絶好の時期を静かに待つだけ。そして凪は望むものを手に入れる。
 そこに、迷いなどない。そのはずだった……
「なぜ……」
 それなのに。
 凪の瞳が、微かに揺れる。
 温かいのだ。
 繋がれた手の温もりが、記憶の中にあるものよりも温かい。
 他人に触れられることが何より不快だったのに、それを感じない自分がいることに動揺を隠せなかった。
 この温もりを忘れてから、どれだけの時間が経っただろう。まともに人と接触しなくなってから、全てを失ったあの日から、長い時間が過ぎているのだと改めて突きつけられた。
 眠っていた間に見た過去の夢も相俟って、厭なものを思い出しすぎて凪の顔に渋面が浮かぶ。
 力の入らない身体を忌々しく感じながら再び瞼を上げ、凪は眠る冴に視線を戻した。
 本人は自覚していないのだろうが、彼女は疎ましくなるほど凪の姿を求める。それは本来ドールに備わっている本能のようなものだから仕方がないといえばそれまでだが、それを解っていても、彼には冴の存在が重いのだ。
 だからこそ凪はこれまで冴に近づくことを極力避けてきた。それは、その度にかき乱れる内面に耐えられなかったから。壊れそうになる世界が怖かったからだ。
 今も、崩れてしまいそうな自身の世界を必死に保っている。
 無意味に焦り、落ち着かない。
「さ……ら……」
 痛々しく零れた言葉は、誰の耳にも止まらなかった。
 ただ、苦しい。
 『冴』の存在が、凪には苦しい。
 これほどまでに心を乱されるとは、自分が動揺するなどとは思いもしなかったから余計に。
 揺り動かされるなんて。
 たった、これだけのことで。
 凪は耐え切れず、握られた手を振りほどこうと試みる。実際は力が入らずそれは叶わなかったが、何度か繰り返しているうちに、冴がその僅かな振動で目を覚ました。
 ゆっくりと上体を起こし、覚醒しきらない意識の中で彼女は凪の姿を捉える。まだ眠っているのだろうと思っていた冴は、自分を見ている凪の瞳と出会い、その瞬間目を見開いた。
「な……っ」
 まさに穴が開くほど彼の姿を凝視した。途端に溢れた温かい熱に目を細め、笑顔を浮かべるも歪んでしまう。
「よか……良かった。本当に……良かった」
 これ以上ないほどの嬉しさと安堵に、冴は勢いあまって凪に抱きつく。その思いもよらぬ行動に彼は目を見開き、けれどなぜか拒絶できなかった。
 代わりに、人の温もりがこんなにも安心できるものなのだと思い出して、複雑な色が浮かぶ。
 そう、たったそれだけのことで。

 握られた掌が、温かかったから
 自分を抱きしめる腕が、あまりにも優しすぎたから

 こんなにも……――――――



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