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 長い廊下の角を曲がった所で突然襲った衝撃に、戎夜は視線を落とす。
「ご、ごめんなさい」
 その先に見知った少女の顔があり、続いた謝罪の言葉に彼は軽く頭を振った。
「いや、俺のほうこそすまなかった。どこも怪我はないか?」
 自分との衝突で尻餅をついてしまったらしい少女、冴に手を差し伸べながら戎夜は尋ねる。彼女はその手をしばらく見つめ、彼の問いに頷くも困ったような表情を浮かべた。
 どうやら手を掴むことに抵抗があるらしく、しかし彼女の性格上せっかくの配慮を無視することもできないのだろう。動揺の色を隠せないでいる。そんな冴を見かね、戎夜は彼女の腕を自ら掴んで引っ張り起こしてやった。
「こういう時は素直に頼れ。こちらにも非があるのだから」
「あ、はい。あの、ありがとうございました」
 冴はぺこりと頭を下げる。戎夜はうっすらと苦笑を浮かべながら、息が上がっている冴を不思議に思い僅かに首をひねった。
「急いでいたみたいだが、どうした?」
 質問をぶつけると、冴はハッと戎夜を見上げる。
「ちょっと……ディオ達を呼びに」
「南の二人を?」
 冴の答えに、戎夜は眉を寄せる。彼らを慌てて呼びに行くなど、何か余程のことでもあったのだろうか。
「何かあったのか?」
「あ、凪が……目を覚まして。だから……」
 告げる冴の表情が途端に柔らかくなり、戎夜は僅かに目を開く。初めて会った時から、冴が浮かべる表情は悲痛めいたものだったから。彼女の笑みがこんなにも美しいものなのだとは知らなかった。
「そう、か。東のドーマが……それは良かった」
「え?」
 本当に安心したような口調で零れた言葉に、冴は驚いたように彼を凝視する。
「あんな風にしたのは俺だからな。いくら死なない身体とはいっても心配はしていた。ちょうどいい、オルビスには俺から話しておこう」
 心配していた。
 その台詞に、冴は何だか嬉しくなった。見た目こそ冷酷そうだが、実は優しい人なのだと判って。ただそれを面に出すのが下手なだけなのだと知って。
「……いいんですか?」
「構わない。オルビスも一応気にはしているだろう。自分が治療した患者のことだしな」
 何気なく告げた戎夜の台詞に、冴は一瞬キョトンとして見せた。それから、違和感を覚えて首を傾げる。
「患者?」
 それではまるでオルビスが医師のような言い方だ。
「そうだ。オルビスは医師の知識と経験を持つ正真正銘の医師だ。東のドーマの治療もオルビスがほとんどやった。つまり患者も同然ということだ」
 さらりと言ってのけるその内容は、驚愕に値する。冴は口元を両手で覆い、目を丸くした。まさか本当にあのオルビスが医師などとは。
「オルビスが……」
 信じられない、という表情を浮かべ冴は零す。
「医師といっても、西では珍しくない。あそこは医学の知識に富んだ大陸だからな。東が死の大陸と呼ばれることから、反して西が生の大陸と呼ばれるのはそれが所以だ」
 西の大陸は医学の知識が発展した場所。そこに住む者たちは、一般的な応急処置や簡単な治療ならば呼吸をするのと同等のレベルでやってのける。幼い頃からそれを教えられ、当たり前となっているからだ。
 だから西の大陸の者達にとっては、医師の存在は決して珍しいものではない。むしろありふれた存在だからこそ、それを本職にするものはほとんどいない。医師の仕事だけでは儲からないからだ。それに比べ、東の大陸に医師はほとんどいない。彼らがいたところで、この大陸に住む者ほとんどには治療を受けるだけの金はない。
 だから、西とは違った意味でこの大陸でも医師は仕事にならなかった。それにもう、この大陸には医師の力だけではどうにもできないレベルにまで悪化している。誰にも、この状況をとめる術などないのだ。
「それよりも、南の二人を呼びに行くんだろう? 足を止めて悪かった」
 考え込んでいた冴は、突然現実に引き戻されて一瞬キョトンとする。それから思い出したように戎夜を見上げて、コクリと頷いた。
「私こそ、ごめんなさい。それと……ありがとう」
 浮かんだ微笑。冴は告げるとすぐに戎夜が来た方へと駆けていく。
 一方戎夜は、その後ろ姿を見送りながらしばらく硬直したまま動けなかった。
 あまりにも見せられた笑顔が綺麗過ぎて。
「いい子だよね、冴って」
 どれほどの間固まっていたのか、いつの間にかオルビスが戎夜の横に佇み、面白そうな表情を浮かべながら彼を見上げていた。
「オルビス」
「ありがとう、だってさ。自分のドーマをあんな風にしたのは僕達なのに、普通に感謝の言葉がいえるなんてね」
 その口ぶりからは、二人の会話を聞いていたことが伺える。
「いたのなら姿を見せればよかったものを」
 つまり盗み聞きをしていたことに気づいた戎夜は、けれど怒るでもなく呆れるでもなく、淡々とした口調で言葉を紡いだ。
「良い雰囲気だったからさ。邪魔しちゃ悪いと思って」
「何のことだ?」
 オルビスの台詞の意味が、本気で解らないらしい。僅かに首をかしげ、問う。
「戎夜。僕と君の関係は一言で言ってしまえば主従だけど、冴とは対等な関係を築けるんだよ」
 ふっと柔らかい笑みを浮かべ、オルビスは言い聞かせるように落ち着いた口調で告げた。
「オルビス?」
「相手が冴なら僕も安心だし。断然応援するからね」
「ちょっと待て。いったい何を言ってるのか……」
 自分の主が何を言っているのかさっぱり解らずに、戎夜は訝しむように眉を寄せる。それでも、オルビスは相変わらず楽しそうな笑みを浮かべていた。
「思いっきりかき回してよ、折角だからね」
 戎夜の背中を軽くたたき、オルビスは背を向ける。
「オルビス、どこへ?」
「目覚めた凪・リラーゼの所だよ。一応体調とか傷の具合も確認しておきたいしね。あぁ、お前は来なくていいから」
 軽く手を振りながら去っていく主を、戎夜は複雑な気持ちで見送った。



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