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 オルビスの診察から早数日。
 凪が身体を起こすまでに回復し、あと数週間安静にしていれば普通の生活に戻れると診断されてからも、食事や身の回りの世話などで冴は足繁く彼の部屋に通っていた。
 相変わらず会話は少ないものの、凪が部屋を訪れる彼女を拒む様子はなく、そのため用がない時でも入り浸ることが多くなった。
 以前ならば用があっても部屋に入ることはもちろん、近寄ることさえ許さなかった凪が、何も言わないのだ。理由は解らないが、疎まれていない間は傍にいようと思い、冴はなるべく部屋にいるように努めている。
 しかし、それには一つ大きな問題があった。
 暇すぎるのだ。
 料理や凪の世話に費やす時間など、一日のうちのほんの少しだ。余った時間、凪の部屋で何をするでもなく過ごしているため、暇で暇でしょうがない。
 凪は相変わらず書物にかじりついているし、冴は教養がないために本は読めないので、ただボーっと彼の姿を眺めているか、窓の外の景色を見つめているだけだった。
 普段からいつもロコ達と過ごしていたため、暇になることなど殆どなかったのだが、凪の部屋にいることからしておそらく彼ら、というより少女の方が近寄りたくないのだろう。
 最後に会話をしたのは、凪の目が覚めた数日前だ。それ以来まともに彼らとは顔を合わせていない。
 冴はあまりの暇さに、今日何度目かの溜息をついた。
 こう何もすることがないというのは逆に疲れる。いっそ読み書きの勉強でも始めようかと思い始めるまでに。
 冴が見ている限り、凪は一日のほとんどを読書に費やしている。そこまでして本というものは面白いものなのか、前々から気になっていたのだ。
「あの……」
 冴は僅かに躊躇い、それから決心したように沈黙を破った。
 凪は反応しない。相変わらず本とにらめっこ状態だ。冴はもう一度同じように話しかける。
「あの、何のお話を読んでいるんですか?」
 凪の無視にはもう慣れっこだ。これしきのことでいちいち気にしたりはしなくなった。冴は構わず続ける。
「いつもどんな本を読んでいるんですか? 面白い……ですか?」
 めげずに問いかけ続けると、やっと凪が面を上げた。煩わしそうに顔をしかめ、吐息すると読んでいた本を閉じる。
「答える義務はない」
 ずばり言われた。その答えに、冴はうっと怯む。
「そうかもしれない、けど……」
 確かに何を読んでいて何を感じたかなんて、いちいち冴に告げる必要などないだろう。けれど、それでは会話は続かないし、何も解らない。
「知りたければ読めばいいだろう」
 代わりに、読んでいた書物を差し出され、冴は思わず面食らう。半ば押し付ける形で手渡されたそれと凪とを見比べ、困ったような表情を浮かべた。
「でも、私字が……」
 読めない。いくら勉強を始めようかと思っていても、いきなりこんな高レベルな本を読むのは無理だろう。
 今まで読み書きなど必要なかったし、教養など身につける暇も、場所も、機会もなかった。
 教養を身につけられるのは身分の高い者達だけだ。それ以外の者達には必要ないし、第一読み書きができなくても、言葉を話せればこの和ではある程度の商売はできる。
 だから冴も、一生縁などないと思っていた。
「……読めないなら読めるように努力しろ」
 しかしあっさり返され、「教えてやろう」などという気の利いた言葉はやはり出てこない。冴は本をぎゅっと握り締め、弱々しく頷いて見せた。
 この本一冊を読みきるまでに、いったいどれほどの時間がかかるだろうか。その間に、凪はどれほどの冊数を読み終えるのだろうか。
 試しにページをめくり、中を見てみる。そこには、わけの解らない細かい文字がびっしりと並んでいた。何が書かれているのかさっぱり予想もできない。
 気が遠くなりそうだった。冴はすっかり肩を落とす。
「……無理なら絵本から始めればいい。必要ならば書庫にある」
 あまりの気の落としように居心地の悪さを感じ取り、凪が仕方なくといった様子で珍しくも助言する。
「え?」
「場所は一階の一番奥だ」
 いつも以上に口を利く彼を、冴は思わず凝視する。例えそれが面倒くさそうな態度であっても、僅かでも自分のことを気にかけてくれたことが嬉しくて。さっきまでの重たい気分もどこかへ飛ぶ。なんと単純なことだろうかと思いつつも、浮かぶ笑みを止められなかった。
「何がおかしい」
 突然笑みを浮かべた冴に、凪は怪訝な表情を作った。
「ご、ごめんなさい……嬉しくて、つい」
 必死に笑みをこらえるが、喜ぶなという方が無理な話だ。簡単に崩れてしまい、笑みがこぼれる。
 そんな冴の返答に、凪はますます眉間にしわを寄せる。けれどそれ以上コメントはなく、手元に数冊積まれた別の本を手に取り、再び読書に戻った。
 冴はそんな凪を見つめ、もう一度深い笑みを浮かべてから立ち上がる。
「私、お茶でも入れてきます」
 そのついでに書庫にもよって、絵本でも持ってこようと思った。字は読めなくても、絵本なら絵が描いてあるはずだ。それだったら漠然と内容は理解できるだろう。
 冴は気持ち急くように部屋を出ると、そのまま廊下を小走りした。
 一階の一番奥。
 食堂は階段を下りてすぐの所にあるため、そこより奥には滅多に行くことがない。一度ロコとこの屋敷を散策した時に通ったくらいか。あの時も、特に意識して見ていなかったため書庫があったことには気づかなかった。
「ここね」
 一番奥の部屋。今まで並んでいた扉とは違い、質素で少し色あせている。
 冴は扉の取っ手に手をかけ、そのまま引いた。ギギッと軋む音が響き、次いで広がった埃っぽく篭った空気に、思わず咳き込む。
 中は想像以上に薄暗く、視界の届く範囲では窓が見当たらない。冴は恐る恐る足を踏み入れ、辺りをキョロキョロと見渡した。一面棚、棚、棚……
 そこにびっしりと並ぶ本。中には棚に収まりきらなくて床に積み上げられている物も幾つかある。
 冴が思い描いていた書庫より随分と広く、奥の方は入り口からの光も届かず闇が広がっていた。
 けれど、その闇の中に一点、ぼんやりと灯る明かりを見つけ、冴は小首をかしげる。
 誰もいないはずの書庫に、ランプの明かり。凪の様子からして彼は頻繁にここを訪れていたのだろうが、いくら何でも本のある場所に火の気を残したりはしないだろう。
 冴は不思議に思い、不自然な灯りの方へと歩を進めた。



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