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「俺が持とう」
 トレーにのせたティーセットをヒョイと持ち上げ、流れるような仕草でリードした戎夜に、冴は一瞬キョトンとする。
「あ、ありがとう」
 あまりにも自然な対応だったために、礼を言うのが遅れた。慌てて告げるが、戎夜はさほど気にした様子もなく薄く笑みを浮かべるだけ。そんな彼の表情に、心臓が撥ねた。
「……?」
 突然早くなった己の鼓動に首を傾げつつ、原因が解らずに冴は自身の胸元に手を当てた。
 人形である身ながら、人と同じように脈を打つ身体。この身体がもとは人形だったとは誰も思わないだろう。当の本人でさえも、自分が人形であるという自覚は酷く薄いのだから。
「どうかしたのか?」
 いつの間にか自分が立ち止まっていることにも気づかずに考え込んでいたらしい。突然歩を止めた冴を振り返り、戎夜が不思議そうに彼女を見つめていた。
「い、いえ、なんでも……っ」
 慌てて戎夜の横まで駆け寄り、ごまかしも含めて笑みを浮かべると、彼は目を見開き、ほんのりと頬を染めた。そんな自分に気づいたのか、戎夜はバツが悪そうにそっぽを向く。
「戎夜さん?」
「なんでもない。行くぞ」
 表情を歪めた彼の様子に今度は冴が首を傾げるが、戎夜はただ首を横に振っただけで歩き出した。少し気にはなったが、そこで食い下がることはせずに、冴は黙って彼の後を追う。
 戎夜は冴が自分に追いつくのを確かめると、歩調を彼女に合わせた。
 食堂を出てからずっと、彼は冴を常に気遣っている。元々オルビスという最も気にかけなければいけない主人を気遣ってきた今までの経験と、彼の生まれつきの性格がそうさせるのだろう。それがあまりにも自然であるために、冴が気づくこともなかった。
 戎夜はちらりと横に並んだ冴を見下ろし、それから近づいてきた凪の部屋に視線を移す。到着地に近づくにつれ、彼の表情はなぜか難しいものへと変わっていった。
 己のドーマである限り、冴が凪を一番に考えるのは当然のことだ。だが、それを解っていてもなぜか面白くないと思ってしまう自分がいることに気づいて、ワケが解らずに困惑する。
「……何かあれば、いつでも尋ねてこい。読み書きについてはそれこそいつでも教える」
「ありがとう」
 早々と部屋の前に着くと、戎夜は一瞬躊躇するように動きを止め、それからハッとして持っていたティーセットを冴に手渡す。どこか後ろ髪を惹かれる思いでそのまま踵を返すと、一度冴を振り返ってから今来た道を戻っていった。
 彼女はそんな戎夜の行動に疑問を抱くことすらせず素直に彼を見送ると、受け取った茶器一式を片手に持ち直し、一瞬躊躇ってから扉を開けた。そっと開けた扉の隙間から中を伺い、特に変わった様子もない静けさにホッと安堵すると、中へ入る。
「……凪?」
 けれど。
 薄暗くシンとした部屋。いつもと変わらないはずなのに、冴はなぜか早くなる鼓動を抑えることができなかった。
 厭な予感がする。
「凪っ?」
 ベッドで寝ているはずの凪の姿がない。冴は途端不安に押しつぶされそうになりながら、もう一度名を呼び、部屋を見渡して――――――
「な……」
 途中で止まった視線の先。その光景を捉え……持っていたティーセットが手から滑り落ちた。それらは無残にも床に叩きつけられて砕け散る。
「凪!?」
 ベッドから程近い壁に背を預け、荒い息をしながら血まみれの姿でぐったりしているのを見つけたからだ。冴は掠れた悲鳴を上げ、咄嗟に駆け寄る。
 近づいた彼女に凪は僅かに顔を上げ、けれど視線は合わせずに呻いた。意識はあることを確認した冴は、彼が上げた呻き声に表情を崩す。
「凪!」
 動いてはいけないはずなのに。おそらく傷口が開いたのだろう出血の酷さに冴は思わず口元を抑えた。
「どうしてっ、何が……」
 少し離れていた間に、ここで何があったのか。
 こんな風に血みどろになってまでしなければいけなかった何かがあったのだ。
「待って、すぐ……すぐにオルビスをっ」
 ここまで酷い状態の彼を動かすことはできない。瞬間的にオルビスを呼びに行くことを思いつき、それを口にした彼女に凪が僅かに眉を顰めた。
 立ち上がろうとした冴の腕を掴む。
「えっ……」
 凪は今にも倒れそうな意識の中でも、痛いほどの力で冴の両腕を掴み、そのまま床に押し倒した。
 突然景色が反転し、冴は何が起きたのか把握できずに間抜けな声を上げる。すぐに凪の顔が真上にあり、自分が組み敷かれているのだと理解すると思わず固まった。
「な、凪?」
 何でこんなことになっているのか解らず、早鐘を打つ心臓に気づいてやっと慌て始める彼女を前に、凪はあくまで無表情に冷たい瞳で冴を見下ろしている。
「勘違い、するな」
 放たれた言葉の内容に、冴は目を見開く。一瞬何を言われたのか理解できず、間近にある凪の顔を凝視した。
「お前は俺の『物』だ。お前に……選ぶ権利などない」
「……え?」
「お前は、俺なしでは……生きられない。忘れるな……俺はいつでも、お前を壊せることを」
 苦しそうに途切れ途切れで紡いではいたが、彼の言葉は絶対的だった。加えてその瞳は、怖いほど冷めたく鋭い。今にも睨み殺されそうなほどの殺気と鋭い視線に、意思とは関係なく身体が震えた。
「お前は……何も考えず、黙ってここにいればいい」
「な、ぎ?」
 放たれていた殺気が、薄れていく。その代わりに見せたどこか懇願するような表情。
 それはまるで冴を失うことを恐れているかのような、縋るような瞳。
 今まで感情のない瞳しか、あるいは怒りや憤慨といったものしかむけられなかったから、その求めるような視線に冴は酷く動揺した。おまけに体勢が体勢であるから余計に。
「お前は、俺の『物』だ……」
 もう一度小さく耳元でささやく凪のその近い息遣いに、胸が痛む。
 先ほどまで打っていたものとは違う鼓動の速さと、胸の痛みに混乱する。まるで心臓を握りつぶされているような痛みに、息ができなくなる。
 嬉しいのか恐ろしいのか、それさえも解らない。ただ、変わらず広がるのは不安。
「凪……」
 冴は凪の服を弱々しく握りしめた。どう反応を返せばいいのか解らない。
 ただ、苦しい。
 困ったように顔を歪める少女を前に、凪はスッと目を細めた。それから、そっと彼女の頬に手を触れる。まるで、温もりを確かめるかのように。存在を確かめるかのように、その手は優しく、温かい。
 そして。
「ここにいろ」
 ぎりぎり聞き取れるくらいの掠れた声で小さく零すと、そのまま気を失った。急に身体の上に圧し掛かった凪の体の重さと衝撃に、冴は一瞬呼吸が止まる。
 すぐに慌てて上体を起こすが、ぐったりとした凪の身体を起こすのは中々至難の業だ。
「……ッ」
 両手で凪の両肩を支え、状態を起こすのに気を抜けば凪の全体重が圧し掛かりかなり苦しい。
 冴は自分の上に覆いかぶさる凪から体を引き抜き、続いて彼を仰向けに寝かせた。
「オルビスを……」
 傷の手当をしなければいけない。冴一人では凪をベッドに寝かせることはできないから、どちらにしても応援を呼びに行かなければならないだろう。咄嗟に浮かんだ医師であるオルビスと、戎夜の姿。
 冴は弱々しい足取りで立ち上がり、先ほど見送った背中を追いかけて部屋を出た。



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