V





「冴」
 玄関前のロビーに設置されたソファに腰掛け、ポツリと頼りない声を出した少女を振り返り、冴は首を傾げた。
 伺うように顔を覗き込み、どこか思案するような表情を浮かべるロコの言葉を待つ。
「一つだけ、話しておきたいことがあるのだけど」
 覚悟を決めたような瞳を向け、ロコははっきりとした口調で告げた。その妙に緊迫した雰囲気に当てられたのか、冴は喉の渇きを覚えて唾を飲み込む。
「ワタクシ、他人の過去とか事情というものにあまり興味がないから、詳しいことは解らないのだけど。それでも、一つだけ知っていることがあるの。凪・リラーゼのことよ」
「え?」
 ロコが自ら凪の話をふる事自体が珍しい上に、あまりに低く暗い口調から、その過去があまりいいものではないことを悟ると、冴の中で怒涛のように不安が溢れそうになる。
 凪のことを知りたいと思う反面、どこか知りたくないような気持ちがあるのも事実だ。
 だからこそ、ロコが語ろうとしている内容を聞くのは、とても複雑な気分だった。
「彼は、貴女と同じなのよ、冴」
「同じ……?」
 自分と同じ。同じとは、一体何が?
「思い出そうとするとおぼろ気になるのだけど、ところどころ覚えているわ。凪・リラーゼも冴と同じ、母親に殺されかけていたはず」
「な」
 途端、走った閃光。
 蘇る記憶の渦に頭が割れそうになる。
 狂喜を振りまき、冴を追い詰める女の姿は、まさに鬼そのもの。血に飢え、血を求め、笑いながら我が子を刺したあの女を母親だと言い切れるかと問われれば、恐らく言葉に詰まるだろう。

 愛していた

 例えどんなに狂っていようとも。自分勝手な愛情を押し付けられようとも、誰かの身代わりでも。
 自分を愛していると、必要だと囁き続けてくれた母親を、冴も愛していたから。
 だからこそ、刃を突きつけられれば暗く深い闇に突き落とされたような絶望を抱くのは仕方がないのかもしれない。
 だからこそ、酷く胸につかえて、しこりは残る。
 もうどうにもできなくても、過去は変えられないと解ってはいても、割り切れないし、傷が癒えることも無いだろう。
 そんな傷を、凪も背負っているなんて。
「凪、も?」
 同じ。
 自分と同じ傷を、ずっと背負って。
 そして、冴を助けた。
「どういった経緯でそうなったのか詳しい所までは解らないのだけど、冴が自分の母親とのことを話してくれた時、思い出して……それで、ずっと考えていたの。もしそれが事実なら、冴を助けたことにも納得がいくって。きっと、自分と重なったのだわ、冴が倒れている姿が」
「一緒……だったから?」
 ずっと解らなかった。どうして凪が冴を助けたのか。助けたわりには酷く冷たいのは、何故なのか。
 けれど、もしそれが本当なら、合点がいく。
 助けたはいいが、己の過去と重なって冴を見るたび複雑だったのだとしたら。だからどこか態度も冷たかったのだと説明されれば、納得もできる。
「それを思い出して、ワタクシは凪・リラーゼを信じることにしたわ」
「信じる、って?」
「冴には大丈夫だって強気なことを言っておきながら、最近不安になるの。もしかしたら冴は利用されているんじゃないかって。でも、考えているうちに今のことを思い出して、やっぱりワタクシの思い過ごしだったのだと反省したわ」
 だから信じる、とロコは続け、苦笑した。
 確かに彼女が言うように、道理も無く凪が誰かを助けることなどありえない。だから、どうしても裏をかいてしまうのかもしれない。でも、そうじゃなかった。冴を助けたのにはちゃんと理由があったのだから、もう疑う必要も無いだろう。
「心配性だな、ロコは」
 いつから話を聞いていたのか、予想していなかった者から反応が返ってきて、ロコだけでなく冴も僅かに驚きの声を上げる。
 二人して振り返ると、今から帰ろうかという割にはかなり身軽なディオールがにこやかに佇んでいた。
「ディオっ」
「そんなに心配しなくても、凪は悪い奴じゃないって言ってるだろう? 冴ちゃんに酷いことなんかしないよ」
 ポンッとロコの頭を撫で、ディオールは冴に微笑む。まるで安心させるかのようなその笑みに、冴はホッと胸をなでおろした。
「それに、凪には冴ちゃんのことを気にかけるようにきつく言いつけておいたから、大丈夫だよ」
 大丈夫。
 たったそれだけの言葉に、どれだけ救われたか知れない。具体的にどう大丈夫なのか、傍から見ればただの気休めにしか聞こえなくても、冴にとってはその単語がどれだけ支えになったか。
 ディオールが言うと、本当に大丈夫なような気がしてくるから不思議だと、冴はつられるように笑みを浮かべて頷いた。
「ありがとう」
「お礼を言われるほどのことじゃないよ」
「そんなこと」
 そんなことはない。冴は頭を振る。
 感謝しても仕切れないほどのことを、二人は当たり前のようにしてくれた。何度お礼を言っても足りないくらいだ。
「あ、そうそう。冴ちゃん、手、出してくれる?」
「え?」
 突然話題が変わったのに加え、唐突なお願いに、冴は咄嗟に両手を差し出してしまった。引っ込みがつかなくなった彼女の掌に、ディオールがそっと手を重ねる。途端、硬い何かがいくつか掌に零れ、離れた手の隙間から見えたそれらに冴はギョッとした。
 手渡された、それは金貨。何が起こるか予想できなかったにしろ、自分から差し出してしまったため返すに返せなくなったそれと、ディオールの顔を交互に見比べる。
「少しだけで申し訳ないけどね」
 これが少し。その言葉に唖然とする冴を余所に、ディオールは申し訳なさそうな表情を浮かべた。これだけの金額があれば、この和でだったら三ヶ月は優に暮らしていける。そんな大金を持ったこと自体始めてな上に、今の冴には金貨を消費する機会がない。
「ディオ……」
「まぁ、ここにいればお金の心配は無いだろうけど、持っていても損はないだろう? 人生何が起こるか解らないから、持っておいた方がいい」
「でも」
「いいのよ、冴。それはどうせ凪・リラーゼのお金なんだから」
「え?」
 凪のお金? なぜディオールが凪のお金を持っているのかとか、そのことを当たり前に告げられたこととか、色々と疑問はあったが、何より凪が何かしらの方法で稼いでいるということが信じられなかった。
「前に言ったね、エレウスの民は悪趣味だって。僕たちドーマが作る人形はおそらくこの世界のどこを探したってこれを上回るものはない。その中でも、凪が作る人形はもはや芸術の域を超えているよ。そういう品物はね、エレウスのような富と娯楽に生きる貴族にとってはいい蒐集品となるんだ。いくらでも金をつぎ込み、コレクションとして集める。中には性欲処理として扱う物もいるくらいだからね」
 だから悪趣味、と諦めたように語るディオールの表情を伺う。そんなことに自分が作った人形が使われているなんて……それをよく思う人形師なんていないだろう。
「それでも、僕達は人形を作り続ける。それがドーマの性だから。凪の作った人形はエレウスでは一等高く売れるんだ。だから僕が捌いて、その報酬を渡しているわけ」
「凪・リラーゼに関しては、ディオがこまめに必要なものをそろえているのよ。食材も、人形を創るにいたって必要な材料も、生活費も。全てエレウスで最高のものを揃え、貯蔵しているのだから」
 呆れたように肩をすくめ、ロコが付け足す。
 今までどうやってこの屋敷を維持してきたのか、やっと解ったような気がする。確かにあの凪が生活するに当たっての細かい雑務をこなしているとは思えない。放っておけば水すら口にしない彼が、わざわざ市場に行って食材を買い、それを保存している姿など想像できない。
 だが、ディオールがそれら全てのことをしているのだとすると、納得がいく。この和に新鮮な食材など無いはずなのに、それらが当たり前に揃えてあったことも、エレウスから取り寄せたのだとしたら、なんら疑問など無い。
「もう通い妻そのものよ。疑いたくなる気持ちがわかるでしょう?」
 ロコの不満の呟きに、あまり思い出したくない記憶が蘇る。確かに凪とディオールの組み合わせは絵になる。二人ともそれぞれ部類は異なるが、端正な顔立ちには違いない。
 展開によっては、そういう関係に転ぶのも……そこまで想像して、冴は激しく後悔した。
「通い妻って……どこで覚えるんだい? そんな言葉」
 嫌な汗を浮かべつつ、ディオールが苦笑いを浮かべる。中身こそ大人ではあるが、その外見で通い妻などと断言されては色々複雑なものがあった。
「だって事実だもの。明らかに他のドーマ達よりも干渉しているのだから」
「友人なんだから、別に不思議じゃないだろう?」
「ディオはそうでも、凪・リラーゼの方はそんなこと微塵も思っていない気がするけれど?」
 ロコの台詞に、ディオールには悪いが冴も頷いて見せた。どこからどうみても、あの凪がディオールに心を開いているとは思えない。
 元々ドーマ同士で友情なるものが生まれるとも思えないし、その単語はあまりにも違和感がありすぎた。
「相変わらずはっきりと言うね、ロコ」
「妙な期待は持たないほうが賢明よ、ディオ」
「はは……肝に銘じておくよ」
 相変わらずロコには弱いディオールに笑みを誘われ、冴はクスクスと笑い声を立てた。
「冴ちゃんまで」
「ご、ごめんなさい」
「まぁ、帰る前に笑顔が見られたからいいか」
「あ」
 あまりにいつも通りの会話と雰囲気に、これから二人が帰ってしまうということを忘れかけていた冴は、現実を突きつけられて笑みを消す。
「また、会える?」
 急にしおれた彼女にロコがすかさず手を握ると、柔らかい笑みを浮かべた。
「当たり前よ。必ずまた会いに来るわ。それこそ、用事が済んだらすぐにでも」
「ロコ……」
 力強く言い放つロコの言葉に、沈んだ表情を一転させ、冴は不安を振り払うかのようにかぶりを振る。
 正直、二人がいなくなるのは寂しいし心細い。
 けれど、いつまでも二人に守られているわけにもいかない。冴自身にとって、一歩を踏み出すためのいい機会になるかもしれないのだから。
「待ってる。身体には、気をつけてね?」
「ええ、ありがとう。冴も、不安になってもあまり根詰めて考えすぎてはダメよ?」
「はい。ディオも、無理しないでね?」
「ありがとう冴ちゃん。オルビス達はまだ当分いるみたいだから、何かあれば彼らを頼るといい。僕なんかよりよっぽど力になってくれるよ」
 言われ、冴は素直に頷いて見せた。
「見送りはここまででいいから」
「それじゃぁ、行くわね」
 吹っ切れたように晴れ晴れとした表情で手を振るロコに、冴も手を振り返す。彼女が笑うなら、自分も笑っていなければいけないだろう。押し寄せる不安に負けそうになりながら、それでも冴は無理矢理に笑顔を作った。
 これ以上、ロコやディオールに心配はかけられない。
「ロコ、ディオっ」
 だからこそ、言っておかなければならないと思った。
 外へ出た二人を扉が閉まる瞬間に呼びとめ、冴はありったけの笑顔を作る。閉じかけた扉の隙間から振り返った二人は、その表情に息を呑んだ。

「今まで、ありがとう」

 窓から差し込んだ光が、冴の身体を照らす。その眩しさに一瞬、冴の姿が薄れた気がして、勢いで閉まった扉の外でディオールは呼吸を止めた。
 まるで一生の別れを思わせるような台詞。
 もしかしたら、この時冴は何かを感じ取っていたのかもしれない。

 もう二度と、会えないかもしれないということを……



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