X 「……どうした」 部屋に戻ってきた冴の表情があまりに沈痛で、一言も喋ろうともしなければ反応も示さないことに我慢できなくなったのか、珍しく凪の方から声をかけた。 しかし、冴はその問いかけにさえも首を微かに振っただけ。らしくない様子に柳眉を寄せる凪を余所に、冴はふいに己の掌を見つめる。 ―――――冴が母様だったら……良かった それは明らかに、オルビスの過去と繋がる嘆きの言葉だ。 冴を母親と重ね、そして違いを突きつけられた時、彼は己の過去に再び絶望した。何が切欠でそれを呼び起こしたのかは解らないが、先ほどの会話の中にその要素があったということだ。 だから、様子がおかしかった。それしか考えられない。 「お母、さん……」 自分が母なら良かったと涙ぐんだオルビスの母親は、一体どんな女性だったのだろう。そう告げたオルビスの言葉を、どういう意味で受け取ればいいのだろう。 喜ぶべきなのか、哀しむべきなのか。 「気になるのか」 「え?」 零した言葉だけを聴けば、誰でも母親が恋しくなったと勘違いするだろう。凪もそう受け取り、難しい顔を浮かべている。しかし冴は、自分の母のことなど今は全く考えていなかったため、突然話を振られてキョトンと呆けた。 凪は凪で、思っていたものと違う反応が返ってきたことに自分がお門違いな問いをしたことを悟る。会話がかみ合っていない二人は、しばし沈黙を守った。 冴は頭の中で必死に質問の意図を考える。会いたいのかと尋ねた凪の言葉の真意を。ここで彼女が会いたいといえば、会わせてくれるのだろうか? 確かに、今母親がどこでどうしているのか気にならないわけではなかった。けれど、面と向かって会いにいけるかと問われれば、それは無理だ。姿が違うのだから会いに行っても母親には冴であることは解らないだろうが、心の整理ができていない。 「凪は……知ってるの? お母さんが、どこで、どうしてるのか」 会うことはできない。まだ。それでも、やはり気にはなる。 「会いたいのか」 母の行方を気にするということはつまり、会いたいと同義なのか否か。凪はそれを確認する。 「解ら、ない……会うのは、怖い。でも、気にならないといえば、嘘になるから」 はっきりと『会いたい』とはいえない。でも、『会いたくない』ともいえない。ただ、今は『会えない』。 「だから、知っているなら教えて、欲しい。お母さんは……っ」 「死んだ」 冷たい声。感情のこもらない声。 「え?」 あまりにも機械的で、事務的で。だから、一瞬何を言われたのかわからなかった。いや、解りなくなかった。 「何、言って……」 「お前の母親は、死んだ」 容赦なく突き刺さる言葉に、言葉が出ない。どうして、どうやって、どうなって母が死んだりするのか。 餓死か、発狂死か、それとも…… 「自害した」 「う、そ」 自害? 自分で自分の命を絶った? あの母が。冴は突きつけられた現実に飲み込まれそうになる。嘘だ、そんなの。 あの母が、もういない。 確かに彼女がしたことは許されることではない。冴も、きっと一生和解できることはないと思っていた。それでも、彼女は冴のたった一人の家族で、曲がりなりにも愛していた人だ。 だから、どこかで生きていてくれさえすればそれでいいと、思っていた。 思って、いたのに。 「……いつ?」 なぜそれを凪が知っているのか。何でもっと早く教えてくれなかったのか。 「お前を刺した日」 それはまるで、後を追うように。冴の母親は、己の命に終止符を打った。 あの時、まだ冴が生きていたことに気づかずに。 「何で、教えて、くれなかったの?」 嗚咽が漏れる。こみ上げる感情は、後悔なのか、安堵なのか解らない。 「意味があるのか」 「な……ッ」 問われ、冴は言葉に詰まった。 確かに、助けられてすぐに母が死んだことを告げられても、きっと冴には何もできない。いや、何もしなかったかもしれない。ただ混乱したまま、その現実を飲み込んでしまうだけ。そしていつか、忘れてしまうだけ。 だったら、その事実を言っても言わなくても同じだ。それよりも、知らなかったままの方が、良かったのかもしれない。 知りたくなかった、こんな事実なんて。冴はスカートを固く握り締める。 「ど、して……お母さんは、助けてくれなかった、の?」 母の死を知っているということは、死に際に立っていたのだろう。それなのに、助けたのは冴だけ。その違いは、やはり立場の違いなのだろうか。被害者と、加害者の違い。 「あの女を、俺は必要としていない。助ける理由がない」 さらりと答え、凪は冴の瞳を真っ直ぐに見つめた。視線が交わり、目が逸らせない。 「俺が必要なのは、お前だけだ」 言われた言葉が、胸を貫く。苦しい。息もできないほどに。 嬉しいはずなのに、締め付けられるように苦しい。 もっと喜びたいのに、涙が溢れそうになる。 「それは、私が凪と同じ、だったから?」 同じ傷を持っているから? 同じように母親に殺されかけているから、助けてくれた。 以前、なぜ自分を助けたのかと聞いた時、凪は必要だったからだと答えた。あの時は凪の言葉に舞い上がっていたけれど、今は違う。もしその言葉の奥に隠された真意があるなら、それを知りたいと思った。 なんで、必要なのかと。 「……何の話だ」 けれど、言っていることをイマイチ理解できていない様子の彼に、冴は困ったように顔を歪める。面白い話ではない為口に出すことが躊躇われるが、それでも彼女は意を決したように唾を飲み込み、確かめるように口を開く。 「凪も昔、その……母親に、殺されかけたんでしょう?」 僅かに凪の瞳孔が開いたのが解った。そのホンの少しの表情の変化で、それが事実であるのだと冴は確信する。 「教えて。私を助けてくれたのは、私が凪と同じだったからでしょう?」 ただ、頷いてくれればよかった。そうすれば、それだけで冴は全てを納得することができる。 「そうでなくては困る、とでも言いた気だな」 「え?」 しかし凪は、どこか失笑するように冷ややかな眼差しを冴に向け、彼女の顔を自分のほうへ引き寄せた。鼻先がくっつくほど近い距離。お互いの息がかかるその短い距離に、冴は頬を赤らめる。 「お前が欲しかったから助けた。理由など、それで十分だろう」 冴の問いを肯定することは決してなく、けれど否定するわけでもなかった。ただ、そんなものは必要とするなとでも言うように、強引に納得させるその瞳の強さと口調にただ頷くことしかできず、そのまま凪の胸に顔を埋める。 言葉が浮かんでこない。疑問も、遅疑も、何もかもを消し去る凪の言葉。 確かな理由が、証が欲しかったはずなのに、たったそれだけの言葉でどうでもよくなってしまう。 それほどまでに、ドーマの言葉は絶対的。 「……はい」 是と答えるしか選択肢はなく、それ以外の返事は許さないとでもいうように。 |