Y 幼心に、美しいと思った。 同時に、脆いとも思った。 美しいものほど儚いとは良く言ったものだが、幼い凪には儚いという単語は微塵も出てこなかった。 美しいからこそ、醜いと感じた。 脆いからこそ、狂うことしか選択できなかったのではないかと思わずにはいられないほど、『母』は異常で、そして美しかった。 『凪。貴方はずっと私と共にあるのですよ』 説き伏せるように、否定を許さない口調で彼女はいつも繰り返す。 同じ言葉を、同じ声で。 何度も。何度も。 『片時も離れず、ずっと、永遠に』 それが当たり前であるかのように。 物心つくまで、凪にはそれが&£ハだった。何を疑うこともなく、自然なことで。 だからこそ、自我の芽生えた彼の反動は大きかった。 おかしい 明らかに、絶対的に、全てがおかしい。 母親の言うこと全てが、全身全霊で否定するほど受け付けない。不可解で生理的に嫌悪するような内容の言葉ばかりに、酷い時は意識を手放しかけた。 『凪。凪? 私の可愛い子。もっとそのお顔を私に見せて頂戴』 触れる手が、異様に冷たい。背筋を何度凍らせたか知れないほど、彼女の掌は温もりを知らない。 『貴方は私の為だけに在ればいいの』 それは、呪縛。 彼女の手から逃れることを許さない、永遠の。 可哀想な女性。 一度の嘘が、彼女の全てを狂わせた。けれど凪は、それを知らない。 だからこそ、一度囚われたらそこから抜け出す術が解らなかった。 女は毎日愛を囁き。 女は毎日反芻する。 愛している。 愛している、と。 『貴方は、私だけを愛していればいいの』 囁いて、頬に触れた唇の感触にぞっとした。 もう、逃げられない…… 研ぎ澄ました意識を、ふと緩める。 心持ち肩の力を抜いて小さく吐息すると、凪は手にしていた本を床に放り投げた。 読書で時間を潰すにも、そろそろ限界かもしれない。もう何日もベッドの上で身動きすらとれず横にっている彼は、いい加減この生活に飽き飽きしていた。 少し無理をすれば立ち上がれないわけではないが、今無茶をすればまた寝たきり生活が延長されるだけだ。ここは少し我慢というものを覚えるのも彼にってはいいかもしれない。この調子で行けば後二、三日もすれば完治とまでは行かないが今までどおりの生活に戻れるだろう。 元々代わり栄えのない生活だが、今は動かせない身体に休息をやるのも悪くない。いつもなら読書に飽きれば人形作りに没頭し、それに煮詰まれば読書、という生活リズムを繰り返してきた凪にとって、休息は無駄な時間に過ぎなかった。 しばし難しい表情を浮かべていた彼は、諦めたように横になる。 今はどうあっても体を動かすべきではない。本に飽きれば眠るしか選択肢はない。起きていても無駄に苛々するだけなら、何も考えなくて済む睡眠をとった方が賢明だろう。 そう思い、目を閉じるも睡魔など微塵も訪れない。 もともと睡眠をとること自体少ない彼にとって、眠るという行為はある意味試練だ。 「ッ……」 思わずもれた悪態に柳眉をよせ、ふと視線を部屋の扉へと移す。 不安こそ口にすれど、不満は何一つ洩らすことのない少女。自由に歩いて、どこへでも行けるその姿が、酷く胸を打つ。 ―――――翼が欲しいの かつて哀しそうに笑いながらそう言った少女は、結局自由を手に入れることなく命を落とした。 守ることも、助けることもできず、凪はただそれを見ていることしかできなかった。約束も果たせないまま、今ここでこうして自分だけのうのうと生きている。 だから、早く完成させなくてはならない。 『あれ』はまだ未完成なのだから。 いつも凪を追いかけようとする少女。けれど、凪が欲しいのは『冴』ではない。 彼女はただの繋ぎ。壊れてしまっては困るのだ。だから、凪は言葉で冴を従わせる。ドールにとってドーマの言葉は絶対的だから、抗うことなどできないから。 どんなに冷たくしても、冴が凪を見限ることはなく、恨みを持つことも決してない。 ドールが故に。 それを、凪は理解している。けれど、冴は違う。彼女はそれが当たり前であることを知らない。 今抱いている感情は、ドールならば誰だって自分のドーマに対して抱く感情。それを、取り違えているのだ。 冴は、その取り違えた感情を誤った認識のままその心にとどめている。開花させようとしている。 何も知らず、気づくことなく。 『だから、今ならまだやり直せる……』 そう忠告した男は、もういない。 歯止めとなる人物は、凪を見限るようにこの場を去った。 何かとちょっかいを出し、何だかんだいって凪を助けてきたディオールは、今回ばかりは手に負えないと判断したのだろう。 凪はふと失笑した。それが自分に対してか、彼に対してかなのかは解らなかったが、どうにも笑える。 やり直すことなど、できるはずがないのに。 「……もうすぐ」 全てが終わる。 長かった悪夢と、孤独が、やっと。 そうすれば、凪はこの世界の全てに怯えることなく生きていける。暗闇だった時間にやっと光が差し込む時が来るのだ。誰にも、邪魔はさせない。 「開放できる。もうすぐ……更」 その瞳は、待ち焦がれるように虚空を見つめ、静かに閉じられた。 |