[ 一度離れた手を、どうやったらまた掴むことができるだろうか。 背を向けてしまった人を振り向かせる方法なんて、まだ幼い彼には解らなかった。 ただ泣いて、喚いて…… そうやって気をひくことしかできず、けれどそれも意味を成さずに終わった。 あんなにも沢山のものを両手に抱え、何を疑うことなく過ごしてきた日々が、あっという間に崩れた瞬間。 それは一瞬で、呆気ないほど簡単に、消えた。 手は、背中は、どんどん遠くなる。 手を伸ばせば伸ばすほど、遠のいていく。離れていく。 置いていかないで 零れた言葉も、罵倒や嘲りに掻き消され、誰にも届かない。 誰もが好意の眼差しを向けていたのに。少年が異質だと理解すると、その態度は一変した。 誰も彼を認めない。 誰も彼を見ようとしない。 誰も彼を……人として扱わなかった。 そうして敬遠された少年は、長い時間の中を、独りで生きる羽目になった。 地獄のような毎日の中で、大人達を呪いながら。 呪詛のように繰り返される言葉と、正気を失った瞳からは、彼がすでに気が振れたとしか認識できなかっただろう。 けれど少年は、ずっと待っていた。 この孤独から連れ出してくれる人を。望む人を。愛した家族を。 ずっと、ずっと。 心の奥深くで。 優しく自分を呼んでくれることを。再び、その腕に抱かれることを。 ずっと、待っていた。 待って、いたのに…… 『こないでこの悪魔……!』 閉ざされた扉の前で、冴はその戸をノックするのを躊躇っていた。 戎夜と食堂で別れてから書庫によってまっすぐここまで来たはいいが、ここはオルビスに貸している部屋だということをすっかり忘れていた。 戎夜は何も言っていなかったが、中にオルビスがいないとは言い切れない。 先日言われたことが脳裏を過ぎった。そしてその時の少年の表情も。 全身全霊で過去を拒み、身を引き裂かれるような痛みをこらえているようなオルビスの表情。そしてどう受け止めればいいのか解らないでいる『母親だったら』発言。 さすがに言われたすぐは戸惑いもしたが、そう思われることを嫌だとは感じなかった。むしろ嬉しいとさえ彼女は思った。 だがどうにも、その時のオルビスの苦しそうな表情が引っかかる。笑って少し照れるように言われたのならば、冴も素直に喜んで受け止めることができただろうが、それを口にするのも、そんなことを思ってしまうこと事態が悪いことだと叫ぶように告げた少年から受け取ったその思いに対して、素直に喜んで見せることは酷なことではないのかと感じていた。 だから、今ここで顔を合わせた時、どういう反応をすればいいのかわからない。そして何より、オルビス自身が冴を避けているのだ。 「どうしよう……」 無意識にため息がこぼれる。 肩を落とし、戸に手をついて項垂れていると、中から微かな呻き声が耳に届いた。ハッと顔を上げ、やはり中に彼がいることを確信したのと同時に、呻き声を聞いて反射的に扉を開けて中に入っていた。 ノックすることも、今まで考えていたこともすべて忘れて。 「オルビスっ?」 広い部屋を見渡し、いつも通り定位置であるソファに寝そべり、ひどい汗をかいて呻いている少年を見つけた。冴は慌てて駆け寄り、苦しそうにもがくオルビスに触れた。 「オルビス、オルビスッ」 何度か名前を呼ぶが、眼を覚ます気配は無い。 美しい表情は歪められ、それが恐怖でなのか、苦痛でなのかは冴には解らなかった。ただ、伝わる哀しみが、冴の心臓を鷲掴みにする。 こんなにも苦しんでいるのに、何もできない。 こんなにも悲鳴を上げているのに、どうすることもできない。 悪夢にうなされる少年を、ただ見守ることしかできないなんて。 「こわ、い……厭だ、か、さま……」 「っ!」 オルビスの手を握り締め、項垂れていた冴に追い討ちをかけるように、少年がうわ言を零す。首を振りながら、何かに抵抗しているような仕草。 「け、て、助けて……母様っ」 少年の叫びに、冴は思わず眼を見開いた。 それは、紛れも無く母親を追う夢。 守られるべき時期に、守ってくれるはずの存在を探す夢。 「お、て、かないで……僕を、母様ッ」 ソファの上で胸元を鷲掴み、小さく蹲るオルビス。 冴は口元を手で押さえ、混乱と動揺に挟まれて呆然と立ち尽くすことしかできなかった。 「大丈夫だ」 途方にくれていると、後ろからこの場にはあまりにも似つかわしくない冷静な声がかけられた。咄嗟に顔を上げて振り返ると、感情の読み取れない表情を浮かべた戎夜が立っていた。 「戎夜、さん」 掠れた声でその人物の名を口にする。青年は少しだけ目を伏せ、それから慣れた様子でオルビスを抱き起こした。それは、父親が幼い我が子を宥めるように優しく、偉大なものに見えた。静かに背中を撫で、悪夢にうなされ暴れる少年をあやす。 「大丈夫だ、オルビス。何も怖いことなどありはしない」 何度も背中を撫で、強く抱きしめ、そうしてやっと、オルビスは静かな寝息を立て始めた。それを確かめると、戎夜は再び少年をソファに横たえる。手近にあった毛布をそっとかけた。 「オルビスは……」 「大丈夫だ。しかし、悪かった。俺が部屋を出るときはオルビスの姿がなかったのでな。驚いただろう」 「いえ、あの」 座り込んでいる冴に手を差し伸べ、少しだけ躊躇してからその手をとり立ち上がった彼女は、スカートのしわを取ってから戎夜に向き直る。 「あれはいつものことだ」 「いつも?」 「オルビスは、眠るといつもうなされる。悪夢しか見ない」 見ると解っている悪夢を、眠るたびに見るということは、どんなものだろうか。 「だがその悪夢を、オルビスは望んで見ようとする」 普通は、見ると解っている悪夢を、自ら望んで見ようとする人は少ないだろう。冴だって、できれば見たくないと思う。眠ることが恐ろしいと感じてしまうに違いない。けれど、オルビスはそうではないのだ。 「どうして」 「……夢の中でしか、会うことができないから、だろうな」 どこか哀惜を感じさせる表情を浮かべ、戎夜は呟いた。その返事に対して、誰に、とは聞かなくても解った。 そう、解ってしまったのだ。 オルビスが抱く思い。そしてぶつけられた思いが。なんとなく、漠然と、解ってしまった。冴は眠っているオルビスに視線を向け、それから俯く。 何よりも、母親の愛情を欲している少年。それは、何らかの理由でそれが得られなかったから。 だから、自身の母と冴を重ねて、それを得たいと考えた。それが冴だったのは、冴も同じく守られるべき存在に見放されているから。オルビスはそれを、本能的に感じ取っていたのかもしれない。 冴となら、足りないものを補えると。だがそれは、あまりにも勝手で、独りよがりな思い。 だからオルビスは冴を避けた。口にするのも、ましてやその考えを募らせること自体がおこがましいと解っていたから。 「それで……」 あんなにも哀しみの灯る瞳をしていたのかと。 あんなにも、痛みを耐えるような切ない表情を浮かべていたのかと。 「最近、二人の様子がおかしかったのは知っている。どこかお互いが避けていると感じてはいた」 あえて沈黙を破るように、戎夜がオルビスの髪を梳きながら零した。冴は面だった反応は見せずに、耳だけを傾ける。 「だが、もしオルビスを厭っていないのなら、少しだけでもいい、気にかけてやってほしい」 「戎夜さん?」 予想もしない青年の言葉に、顔を上げる。真摯な眼差しとであって、一瞬怯んだ。 「お前には気を許している節がある。滅多にあることじゃない、オルビスが俺以外に心を開くことは」 確かに、凪やディオールと比べれば、冴に対する態度は紳士だ。初めて言葉を交わしたときから、オルビスが本気で冴を傷つけようとする気は感じられなかった。 むしろ逆に拍子抜けするほど友好的なものだったのを覚えている。 冴も冴で、オルビスを知れば知るほど、警戒心も薄れてどこか微笑ましいとさえ感じるようになっていた。 「戎夜さんは、本当にオルビスのことが大切なんですね」 その感情は、ドールとしてだけではないような気がする。本当に、ドーマとドールの関係を抜きにしても、戎夜はオルビスを大切に思っているのが解る。そしてそれは、冴の中にもある。 「次いでに言うと、私も、二人は大切です。お友達、ですから」 今まで、自分たちの関係が何なのか、言葉にできないでいた。ただ同じドールというだけの、知り合い。けれどその表現は、どこか冷たさを帯びていてあまり好きではなかった。 でも、やっと言葉を見つけたのだ。そして、確信も。 「知らなかった、でしょう?」 苦しそうにしていれば、辛くなる。笑っていれば、楽しくなる。そんな関係が、そんな日々が、愛しいとさえ感じる。それは紛れもなく、彼らが大事な存在だからだ。だから、胸を張れる。言い切れる。 「だから、オルビスが厭だと言っても、勝手に気にかけます」 優しい笑み。戎夜に笑いかけるその表情が、酷く暖かい。懐かしいとさえ感じるような微笑に、青年は安堵に顔が歪んだ。 「ああ、それは知らなかった」 そしてつられるように浮かんだ笑み。戎夜は嬉しそうに、久しぶりに声を上げて笑った。 |