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 本当に小さくて、微弱な灯火を見た。
 ほんのりと、やわらかく照らすその光が、温かいと思った。
 まるで、包み込まれているような、抱きしめられているような、そんな温かさ。
 少しだけ、怖いことを忘れていられるような。

 小さな小さな灯火を、そっと掌で包んで、少年は浮上した。




 そよそよと、髪を揺らす風が心地よい。
 ゆっくりと浮上した意識が、徐々に覚醒し始める。眩い光が視界を突いた。開きかけた瞳を咄嗟に瞑り、しばらくたってからまたゆっくりと瞼を上げる。
 途端、広がった見慣れた光景に少しだけホッと息をついた。眠りについた時のまま、何一つ変わらない世界。
「む、難しい、ですね」
 けれど、一つだけ眠る前とは違うものがあったらしい。聞き覚えのある声と、明らかに自分にかけられたものではない台詞に、オルビスは音を立てずに上体を起こした。
「大丈夫だ、何度か書けば覚える」
 見れば、テーブルを挟んで向かい合って座り、手元に何冊かの本を束ねて頭を寄せ合う戎夜と冴の姿があった。
 卓上に広げられた紙に、拙い文字を震える手でつづる少女の姿。それを微笑ましく見守る青年。
「そうだ、大分うまくなってきたな」
「でもまだ数えるくらいしか、覚えられなくて」
 文字を覚えることはもちろん、書いたこともないだろう彼女にとって、それはまさに未知なる体験であるに違いない。
 少年は、あまりにも自然体である二人の存在に、きょとんと眼を瞬いた。まだ夢の中にいるのだろうか、そんな風にさえ感じられるほど、オルビスにとっては突飛な出来事で。
「……何してるの」
 思わず尋ねてしまうほど、何も考えずに疑問を口にしていた。
 そんな少年をよそに集中していた二人は、思わぬ第三者の介入に同時に顔を上げる。そのままオルビスに視線を向け、二人とも柔らかい笑みを浮かべた。
「起こしてしまった? おはよう、オルビス」
「煩かったか?」
 二人して同じようなことを言う。二人して、何にもなかったみたいに、普通におはようと言われて、オルビスは面食らった。
「え? あ、うん、おはよう……?」
 軽く動揺する。
 戎夜はまだいい。だが、冴にいたってはあれだけあからさまに避けていたのに。それは、どんな顔をすればいいか解らなかったから。どう反応すればいいのか戸惑っていたから。
 それを冴も感じ取って、彼女もあまり接してはこなかった。なのに、今目が覚めればこれだ。
 動揺しないわけがない。
「お水、飲む?」
 すぐさま席を立ち、水の入った小瓶とグラスを片手に、冴がオルビスの顔を覗き込む。それは逆に不自然なくらい自然な態度で、戸惑う。
「あ、いや、えっと……うん、貰う」
 気持ち悪いと感じるほど汗もかいているし、乾ききった脳と身体が水という言葉に素直に反応して、彼女の言葉を受けていた。
 差し出されたグラスを受け取り、一口含むと、後は止まらなかった。勢いよくそれを飲み干し、ホッと息を吐き出す。
「まだ飲む?」
「もういらない」
 答えると、冴は頷いてオルビスからグラスを受け取った。脇においてあるサイドテーブルに慣れた動作でそれらを置くと、向き直って微笑む。
 全てを包み込むようなその態度に、表情に、オルビスは顔を歪めた。

 どうして

 どうして。どうしてそんな風に、当たり前のように、笑うことができる?
 解っている。己が抱く感情が、人を押しつぶすものだと。ただの重荷にしかならないものなのだと、オルビスは知っている。それはただの軽佻にすぎないと。
 強欲で、尾籠で、愚拙な感情。
 それなのに、なぜそれを簡単に受け止めてしまう。受け止めることができる。
「今、戎夜さんに読み書きを教えてもらっていたの」
「え? ああ……」
 屈託のない、笑み。そう、この笑顔さえ、奪ってしまうかもしれない。
 自分の思いは。勝手な願いは。
 今、あの言葉を冗談だと弁明すれば、笑い飛ばしてくれるだろうか。あんなことを、言うつもりはなかった。ふと抱いてしまった感情を、伝える気なんてなかった。己の中だけにしまっておいて、胸の奥底にしまっておくはずだったのに。
「それで、少しだけれど、書けるように……」
「冴」
 冴の言葉を、オルビスは強い口調で遮った。それから、少しだけ寂しそうに笑って、告げる。
「無理しなくていいよ。厭なら厭って、いってもいいんだ。そこまでして僕に気を使う必要なんて一つもないんだよ?」
 それは、突き放すような口調でもあった。冴は予期せぬ言葉に目を見開く。それから、すぐに真摯な表情を浮かべて真っ直ぐに少年を射抜いた。それは、少し怒っているようにも見える。その未だかつてない少女の怒りに中てられ、オルビスは怯んだ。
「どうして、そんなことをいうの?」
 感情の読めない声音。返された少年は、答えに詰まった。冴は答えを待たずに続ける。
「私が無理しているように、見えた? どうして?」
「それは、だって……」
「私は、厭だと思うことを我慢できるほど、大人じゃない」
 大人になれば我慢できるかどうかなんて解らないけど、と後に付け足して、冴は強く言い切った。
 その表情は悔しそうでもあり、哀しそうでもあり、怒っているようにも見える。
「無理して笑ったって、無理して優しくしたってされたって、そんなの苦しいだけだってこと、私……知ってるよ?」
 かつての自分がそうであったように。
 母が怖くて、恐ろしくて、いつだって我慢していた。
 無理して笑う自分。
 愛していると、思い込ませるように、言い聞かせるように囁く母親。それは、継ぎ接ぎだらけの関係でしかなくて、ただお互いが苦しいだけで、何一つ幸せだと感じることのできない世界。
 そうやって嫌だと思うことを無理して、無理して無理して我慢して、その結果、母を拒絶してしまった。一度だけ。
 そしてそのたったの一度が、母を追い込んでしまったのだ。
 もっと自分が、我慢することができていれば、あんなことにはならなかったはずなのに。それを責めても、もうどうにもならないことだと知りながら、心の奥底で、片隅で、そう思わずにはいられない瞬間がある。どうしても。
「そうでなければおかしいなんて……何がオルビスにそんなことを言わせるようになったの」
 他人と距離を置くのは、自分を過小評価するのは、そうなる原因を何度も味わってきたから。何度も何度も繰り返し、耳を塞ぎたくなるくらいに。
 冴はそっとオルビスを抱きしめた。
 オルビスが今まで感じてきたものは、例えば、濁流の中に放り込まれたような恐怖や艱苦。
 自分を否定される内容を含む繰り言。救いのない拒絶だけの挙措。
 それらの要素全てが、この腕の中にいる少年をここまで臆病にさせてしまったのだ。
「無理なんてしてない。私が、勝手に気にしているだけ。気にしたいから、気にしているだけ」
 抱きしめる腕に力をこめる。
 押しつぶされるわけがない。その思いをぶつけられた本人が、それを負担だと、重荷だと思っていないのだから。
「冴……」
 彼女の長い髪が、オルビスの鼻をくすぐる。そんな二人のやり取りを、難しい顔を浮かべて静かに見守っていた戎夜は、それでやっと肩の力を抜いた。
 そして、そっと二人を包むように抱きしめる。
「戎夜」
「俺を忘れてもらっては困る」
 驚くオルビスを見下ろし、穏やかな笑みを浮かべる青年。冴はただ見守るように微笑んだ。そんな二人の表情に、少年は何かを堪えるように肩を震わせ、俯く。
 それは、母のような、父のような。まるで家族のような。
 オルビスが欲したものは、何よりも望んだのは、主従の関係もなく、何の見返りもなくもう一度自分を抱きしめてくれる存在。
「ごめん、ね? ごめん、服を、汚してしまうかも」
 言うより先に、腕を冴の背中に回して縋りつくように顔を押し付けた。その後に続く、嗚咽のような掠れた呻き声。
 衣服を通して肌に伝わったひんやりとした感覚に気づいて、冴は幼子を宥めるように少年の頭を優しく撫でた。
「僕は、ただ、ただ少しだけ、ほんの、ちょっとだけ、こうやっていられる時間が……欲しかっただけ、なんだ」
 全てを許して委ねられるような、そんな存在である母親の腕に抱かれることを、もう一度だけ、望んでいた。たった一度でいい、もう一度だけでいい。それを、少年は冴に望んだ。それは、彼女ならそうしてくれることを、漠然と解っていたから。
 しゃくりあげながら、オルビスが零す言葉を、一言一言、冴は頷きながら聞いた。
「ホントに、ちょっとだけ。すぐに、乾いてしまうから」
 染みだけを残して、涙はいずれ乾いてしまうから。

 だからもう少しだけ、時間を
 この幼い少年が、再び顔を上げるまで……



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