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 白い羽が舞う。
 それはまるで、神の使いのような真っ白さ。
 純潔なその姿態は、穢れを赦さない。
 何度見ても、どれだけ眺めても飽きることのない美しさに、冴は惚けるように目を細めた。
 先日戎夜から小鳥の世話を頼まれて以来、お互い相性が合うのか常に行動を共にしていた。冴も小鳥が可愛くて仕方なく、鳥のほうも冴を相当気に入っているらしい。
 冴がその触り心地のいい羽毛を撫でると、気持ちよさそうに小鳥は歌う。
 またその歌声が美しかった。
「可愛い……」
 もう随分長いこと向かい合って冴は小鳥を撫でていた。飽きもせず、小鳥もされるがままだ。
「……」
 そんな一人と一羽を複雑な気分で見ている青年が一人。
 本を読もうにも、横から漂うピンク色のオーラに中てられて集中できない。文句を言おうにも、彼女達の世界に入っていくだけの気力がない。
 ものすごく煩わしいが、身動きの取れない今の凪にはどうすることもできなかった。
 ただ黙って見ていることくらいしか。
「可愛い、可愛い」
 もう何度目になるだろう、うわ言の様に繰り返す冴の台詞にうんざりしながら、凪は持っていた本を放り投げた。
 こうなったらもう眠るしかない。そう結論を出し、さっさと横になる。
 目を瞑ればほら、何も見えない……などと、上手く事は運ばなかった。硬く目を瞑っているはずなのに、何でかピンクのオーラが見える。それもものすごく鮮明に気配を読み取れる。
 相手が鳥であったとしても、例え人でなくても、これだけ目の前でイチャイチャされれば面白くないのは誰だってそうだろう。
 さして回りに興味を示さない凪でさえ、無視できないほどの強烈なイチャつきにとうとう堪忍袋の緒が切れた。
「おいっ、いい加減に―――――」
 横にした上体を起こしながら、彼にしては珍しく声を荒げて発した言葉は、けれど最後まで紡がれることはなかった。
 同時にノックの音が響いたからだ。
 その音にようやく冴が現実に戻ってきた。一瞬凪と目が合い、すぐに二人して扉に視線を向ける。
 現在この屋敷にいる者は限られている。今は往診と称してオルビスが定期的にやってはくるが、今日はその日ではないはずだ。
 一体誰が……思いながら、冴は部屋の扉を開けた。
「……戎夜さん?」
 どこか申し訳なさそうな表情を浮かべながら、扉を開けた先に佇んでいた青年に向けて目を瞬き、訪問者が誰か分かると自然と顔の表情が緩んだ。反して凪は不機嫌そうに柳眉を寄せる。
「すまない。白姫(シラキ)を探しているんだが、ここに邪魔してないか?」
「白姫?」
「この間世話を頼んだ鳥のことだが……あぁ、やっぱりここにいたのか」
 聞き覚えのない単語に首を傾げる冴に、戎夜が説明を付け足しながらちらりと部屋の奥を垣間見た瞬間に話題の張本人を見つけて、彼は呆れたように肩を竦めた。
 戎夜の視線の先を追うように、冴もそちらへ顔を向ける。そこには、テーブルの上にちょこんと陣取っている白い翼を持つ小鳥の姿があった。
「あの子、白姫って言うの?」
「ああ。白い鳥にして歌姫だからと、オルビスがそう名づけた」
 歌姫。確かにその通りだと冴は納得した。白姫の声は歌そのもので、奏でる旋律は美しい。
「白姫。オルビスがお前を呼んでいる」
 戎夜の姿を見ても何の反応も示さなかった小鳥―――もとい白姫は、オルビスの名が出た途端ピクリと翼を振るわせた。
 どうやら相当に頭のいい鳥らしい。
 己の役割を理解し、必要に応じて応える。だからこそ、矜持も高く人には中々懐かない。
 白姫は一度翼を羽ばたかせると、その場を蹴った。低く旋回し、冴の前をすり抜けて戎夜の肩にとまる。少しだけ名残惜しそうに冴を垣間見、首を傾げた。
「すまないな。少し借りる」
「いえ、そんな。もともとはオルビスの……」
 冴の所有物ではない。そんなに申し訳なさそうな表情をされるとかえって困惑する。
 しかし懐いてくれていた分、一時的でも別れは寂しいのは仕方がないこと。冴は名残惜しそうに頭を撫で、戎夜に伴った白姫を見送った。
 それこそ見えなくなるまで。白姫も白姫で、じっと冴の方へ視線を向けていた。姿が見えなくなりしばらくして、冴は小さく肩を落としながら部屋へと戻る。
 しかしそこでは、彼女にとって最大の危機が用意されていた。
「凪……?」
 ベッドの上には、ものすごく不機嫌な様子の凪がいた。それはもう、今までにないくらい不吉で不穏な殺気を撒き散らしている。
 冴が呼びかけても答える様子はない。反応すらしない。かといって、以前のように出て行けと癇癪を起こす様子もない。
 一体どうしてこんなにも凪の機嫌が悪いのか、冴には皆目見当がつかなかった。いや、全く心当たりがないわけではないが、まさか、と思う気持ちの方が強い。
 まさかあの凪に限って、妬いているなどということはあるまい。
 相手は小鳥だ。人間でもなければ、そもそも妬くとか言う以前に、凪が冴に対して好意を寄せているようには感じられない。
 よって、今のこの状況の対処法が見出せなかった。
「あ、あの……凪? 怒ってる、の?」
 それでも恐る恐る尋ねると、ピクリと凪が反応する。そして怪訝な表情が向けられた。
「俺が?」
 怒っているように見えるのか? と逆に問われ、冴は返答に詰まる。どこをどう見たって、彼は怒っている。仮に怒っていないとしても、とても不機嫌だ。
 それは何か気に入らないことが彼の中であったからそう見えるのであって、そうでなければ冴だってそんな頓珍漢なことは聞いたりしない。
「ピリピリしてるから……怒っているのかと思っただけ。違ったのなら、ごめんなさい」
 しかし当の本人は怒っているわけでもなく、不機嫌である自覚もないらしい。互いが首を傾げ、そして結局引いたのは冴だった。
 早々に謝ってこの話題を終わらせる。本人が怒っていないというのだから、そうなのだろう。
 冴はあまり深く考えないようにして、ほとんど空になっていたグラスに、冷えた水を注いだ。それを凪に差し出す。
 グラスを受け取りながら、指摘された当の本人は納得しきれない表情で、何かを考え込んでいた。
 冷たいグラスを手にしてもそれを飲む気配は見せず、俯いて怪訝な顔を浮かべたままだ。
 確かにどこか面白くないと感じてはいた。白姫とイチャついている時から渦巻いていたモヤのような……しかしそれは、はっきりいえばウザイという感情が勝っていたような気がする。
 鬱陶しい。煩わしい。そう感じていたはずが、完全に面白くないと認識した瞬間は―――――
「凪!?」
 持っていたグラスが凪の手から滑り落ちた。当然中身が零れ、布団に大きな染みを作ったのは言うまでもない。
 冴が慌ててタオルを引っ張り出し、零れた水をふき取る中、凪は気づいてはいけないものに気づいて絶句していた。
 ありえない、と頭を抱える。
「凪? どうしたの?」
 殆ど布団に吸収されてしまった水気と戦っていた冴が、表情を曇らせた凪を心配そうに見上げていた。グラスを落すなど、また調子が悪くなったのではと不安になる。
 そんな少女の表情に、凪は怯んだ。伸びてくる掌を、咄嗟に拒む。
「凪……?」
 弾かれた手の痛みよりも、拒絶されたことへの痛みが勝った。最近では、拒まれることの方が少なくなっていたから余計に。始めはいつだって拒絶されていたけれど、それに慣れたことなんて一度もない。
 慣れたフリをしていただけだ。
 冴は傷ついた表情を浮かべ、行き場のなくなった手を力なく下ろす。
「ごめ、なさ……」
 何についての謝罪かも解らないうえに、途中で言葉が途切れる。嗚咽が漏れそうになって、冴は慌てて口元を押さえながら部屋を出て行く。
 一瞬見せた少女の涙に凪はハッとして手を伸ばし、けれどすぐに力なくそれを下ろした。
 呼び止めて、それでどうするというのか。
 拒絶したのは他でもなく自分だ。弁明でもするつもりだったのだろうか。思うと、自嘲せずにはいられなかった。
 凪は虚しく空を描いた掌を見つめ、皮肉めいた笑みを浮かべる。

 面白くないとはっきり自覚したのは、戎夜に向けて笑みを浮かべた冴を見た瞬間だったのだから。



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