V





 どれくらい走っただろうか。
 長い廊下を駆け抜け、息苦しさに耐えかねて足を止めた。肩で息をしながら、冴は力なく項垂れる。
「……っ」
 漏れそうになる嗚咽を必死に堪えようとするが、耐えようとすればするほど酷くなる。しゃくりあげながら涙を拭い、けれど後から後から溢れて止まりそうにない。
 胸の奥が軋む音を立てて、悲鳴を上げて、のたうつ痛みに涙が止まらない。
 呼吸が上手くできなくて、冴は咳き込みながらその場に蹲った。
 苦しい……
 痛い。胸が、掌が、体中全てが、悲鳴を上げている。
 弾かれた掌を見つめ、強く握り締めた。言い聞かせるように、思い込むように、力を込める。
 今までにだって、何度も拒絶されてきたのだから。今更傷つく必要なんてない。
 これ以上、何を傷つくことがあるのかと。

 始めから、凪は冴を受け入れてはいなかった。
 始めから、凪は冴を望んでなどいなかった。

 そう、始めから。最初から。

 凪は『冴』を必要としては――――――

「どうしたんだ!?」
 不穏な単語が浮かびかけたその時、唐突に慌てた声を向けられた。冴は一瞬ビクリと震え、その聞き覚えのある声で走ってくる足音が誰のものかを理解する。徐々に近づいてくるのが分かるが、ボロボロ状態の顔を上げられない。
「大丈夫か? 気分でも悪いのか」
 駆け寄ってきた青年はすぐさま膝をおり、冴の顔を心配そうに覗き込んだ。冴は見られまいと逆に俯くが、隠しきれるわけもない。
 目の前の青年、戎夜が息を呑むのが分かった。
「何か、あったのか?」
 その、優しい声。途惑うような、けれど頼りたくなるような彼の腕が視界の端にちらつく。
 冴は戎夜の問いに首を振るのが精一杯だった。
「だが、何もないようには……」
「だいじょ、ぶ……本当に、何も」
 ない、と最後まで言えなかった。関係ない人の前でさえ強がれないほど、凪の拒絶によるダメージは大きい。
 涙を堪えることもできず、再び溢れ出したそれに少なからず慌てるが、どうしようもなかった。
 泣いている本人も慌てているが、状況のつかめない戎夜はもっと慌てていた。もともと泣きらはしたような顔をしていた少女が、再び涙を浮かべているのだ。
 動揺しないわけがない。
 戎夜はしばらく落ち着かない様子を見せていたが、一つ息を吐き出すと真摯な表情を浮かべた。
「……そんな風に泣くな」
 俯いたままの冴の頬を両手で包み、自分の方へ引き寄せると、彼は指で流れる涙を拭う。その表情は困ったように歪められていたが、どこか優しさを帯びたものだった。
「一人で泣いたりするな」
 ぎこちない動きで、戎夜は冴を抱きしめた。
 広い胸板が間近に迫って、戎夜の鼓動が、温もりが伝わってくる。とても安心できる腕の中で、必死に堪えてきたものが溢れ出した。
 涙が止まらない。
「ぅ……え、っぅ」
 しがみついて、縋って、声を殺して泣いた。
 そんな冴を腕に抱きながら、戎夜は少女が落ち着くまでずっと頭を撫でていた。優しく、宥めるように。
「何があったかは知らないが、泣いて忘れるといい。お前が望むならずっと傍にいる……俺を呼べばいい」
 それはあまりにも優しすぎる言葉だった。
 今まで一度も、こんな風に誰かに優しく抱きしめてもらったことは無い。こんなに優しい言葉をかけてもらったことが無い。
 全てを受け止め、受け入れてくれるような、何をしても、どんなことがあっても自分の味方でいてくれるような存在は、一人としていなかった。
 だから余計に、戎夜の言葉が、存在が、冴の心を捉えて放さない。
「ごめ……な、さい」
 戎夜の胸板から少し身体を離し、彼を見上げながら申し訳なさそうに述べる。戎夜はそれに冴の頭を軽く撫で、微笑んだ。
 青年の表情につられ、冴も今できる精一杯の笑顔つくり、
「……ありがとう」
 ありったけの感謝の気持ちを表す。少しだけ、胸の痛みが和らいだ気がした。
 少しだけ。哀しみが薄れたような、そんな気がした。
「謝罪も感謝も必要ない。俺が勝手にしたことだ」
 笑みを作る青年は、どこまでも優しい。
「泣いて欲しくなかった」
 髪を梳きながら、撫でられながら、囁かれた言葉が胸に沁みる。じんわりと、浸透していく。深く、甘く。
 いつの間にか熱を帯び始めた頬に気づき、途惑うくらいに。
 戎夜の言葉は、態度は、その笑みは、優しく甘く、拒めない。
「……部屋まで送ろう。立てるか?」
 冴からは身体を離し、戎夜はゆっくりと立ち上がると、未だ廊下にへたり込んでいる少女に向けて手を差し出した。
 その手を掴むのを、躊躇う。この手に縋ってしまえば、きっと楽で、何も不安に思うことは無いということが、冴にも漠然と分かった。
 この手を取れば、おそらく目の前の青年は全てを受け入れてくれるはずだ。
 凪のように突然拒絶することも、突き放すことも、きっとない。冴が望めば、望んだ分だけ傍に居続けてくれるだろう。
 凪のように、気まぐれではなく。

 凪のようには……

「ぁ……私、は」
 冴は動かせない手を、ぎゅっと握った。自然と顔が俯く。
 目の前に出された手を取れば、この人を選べば、傷つくこともない。それなのに、その手を取るのを躊躇う。

 それは何故?

「な、ぎ……凪」
 浮かんだのは、先ほど拒絶されてしまった青年の顔だ。誰よりも美しく、冷酷な人形師。
 己のドーマ。
 冴が欲しいのは、目の前の青年ではなく、他の誰でもなく、凪の手だ。
 だから、躊躇う。
「私は……」

 気づいて、しまった―――――

 こんなにも苦しくて切なくなる理由が、やっと分かった。冴は自分の中にあった感情に気づいて、身体中の血が湧き上がるのを感じた。
 戎夜の瞳が、一瞬揺れる。
 だが、冴はそれに気づかなかった。いや、気づけなかったのだ。余裕が無くて。
 凪に対する己の感情がどういった類のものか、突きつけられて。気づかされて。
「私は、凪が」

 灯った感情は仄かな熱を帯び、胸の奥深くを焦がしていく……



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