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「放っておいていいの?」
 夕闇の中、全て見ていたとでも言うような口調で、オルビスが首を傾げた。
 冴と入れ替わるようにして入ってきた少年は、とても面白いものを見つけた子供のような笑みを浮かべて、ベッドに腰掛ける。
 その肩には、先ほどやっと視界から消えたと思った小鳥、白姫がちょこんと陣取っていた。凪を威嚇するように、羽を広げる。
 オルビスは興奮気味な白姫を静かに宥め、その柔らかい羽毛を撫でながら、ちらりと凪を垣間見た。
「引きとめようと思えばできたのに、どうしてしなかったの?」
 幼い子供のように問いかける少年の表情は、やはりどこか楽しんでいるように見える。
 白姫を肩から腕に乗せ、頭を撫でてやる。すると、小鳥は小さく鳴いた。
「あんたはもう、動けるはずだけど? いつまでそうやって、『怪我人』のフリをしているつもり?」
 笑みが、歪んだ。皮肉気に。
「冷酷で排斥的。人情の欠片もないと忌避されてきた東のドーマが、たかだが自分のドールを手元に置いておきたいばかりに子供染みた仮病を決め込むなんてね?」
 可愛らしく小首を傾げて見せても、オルビスの表情はどこか冷めている。笑みが浮かんでいるのに、笑っていない。
 どこかひいやりと空気が凍るような肌寒さを纏い、凪を責めるように問い詰める。
「居心地がよくなっちゃった? 冴が隣にいるのが、あたりまえになっちゃってたんでしょう? だから、崩したくなかった。自分の怪我が治れば、ずっと付き添っている理由が無いもんね? 冴のことだから遠慮して、部屋を訪ねることも少なくなるかもしれない」
 ましてや、今みたいに拒絶してしまっては尚のこと。
 それでなくても、今まで凪は冴を拒絶してきた。最近ではそれも少なくなっていたが、何か都合が悪くなれば、声をかけるな、呼び止めるなと、拒み続けてきたこれが結果。
 そんな中で凪の怪我が完治したことが分かれば、今までのように彼の隣で真剣に読書をする姿も、寝ている凪の手を握って横で転寝している姿も、消えてしまうだろう。
 見慣れてしまった光景が、一転するのだ。
「だから、追いかけられなかった。馬鹿じゃないの? 僕が言うのもなんだけど、いいわけ? 今のタイミングで突き放すなんてどうかしてる。僕が戎夜を推してるの、気づいてるんでしょ?」
 つまらなさそうに足をバタつかせ、それに合わせるように白姫が数回羽ばたいた。
「色々とけしかけてみたら、予想以上に反応するから随分とおかしかったよ。冴が大事ならもっと優しくすればいいのに」
「……」
 凪は何もいわない。これだけ侮辱されれば即座に口が出る男が、だんまりを決め込んでいる。
 静かに、胸元を押さえた。
 そこに在った爪痕は、もう殆ど無い。腹部と肩にあった疵も塞がり、オルビスのいうとおり、完全とはいかないまでも、普段どおりの生活ができるまでには回復していた。殆ど完治と言っても過言ではない。
 それでも凪は、立ち上がることができなかった。
 このベッドを出て、今までの生活を続けることを先延ばしにしていた。
 それがどれだけ愚かなことか解っていても。
「ねぇ、それでも冴は大事じゃないって言うの?」
 それは真摯な瞳。
 二人の視線が交錯する。今まで反応の無かった凪から殺気が飛んだ。
「手に入れたいものは、そんなに価値があるものなの?」
 オルビスはギュッと硬く拳を握り締める。尋ねたその声が、硬い。
 世界にとっての異分子である彼らが、自分以外の誰かに受け入れられることは、奇跡に近いのだ。そんな希少な存在を失うことがどれ程のものか……できることなら味わいたくはない。
「冴は、珍しい子だよ。他のドーマやドールと、あんなに自然に打ち解けられるなんて。それだけじゃなく、僕達がこんなに話すことだって、今までなら考えられなかった。それが当たり前になって、それを繋いでいるのは冴なんだよ?」
 今まで面識の無かった東と西。そんな二人が直接対面したのは、する気になったのは、凪がドールを得たことで、オルビスがそれに興味をもったから。
 そして訪れたこの場所で、冴と出会った。
 滞在する気もなかったが、それでもここまで長期滞在をすることになったのは、結局この場所に冴がいたからだ。
 もともと、凪の怪我などどうでもよかった。名目は、負わせた怪我に対する負い目と、凪が成し遂げようとしていることへの疑心と必要ならば阻止ではあった。
 そうだったはずが、途中からどうでもよくなっていたのだ。ただ冴がつまらないことでも笑いかけてくれるから……それが心地よかったから。
「何で冴なんだよ……なんで冴だったんだよ!」
 失うことが惜しくならないようなドールなら、こんなに苦しむことも無かった。
 助けたくても、救いたくても、他人のドールに手出しはできない。その余地はない。
 自由にできるのは、己のドールのみ。
 それが『契約』だから。
 魂に刻み付ける。魂を縛り付ける。
「あんたはそれでいいの!? 気づいてるんだろう!? あんたに必要なのは過去じゃない、今ここにいる冴のはずだっ!」
 だからすぐに我を忘れるのだ。感情を抑え切れなくなるのだ。
 何にも興味を示すことの無かった凪が。今まで死んだように人形だけを作ってきた凪が。
 冴に関することでだけ、人間らしく感情を起伏させた。
「あんたは冴を……―――――っ」
「黙れ」
 勢いで胸倉を掴んだオルビスに、今まで口を閉ざしていた凪が静かに告げる。その瞳は酷く冷ややかなのに、なぜか痛々しく思えた。
 傷つけられたような、傷ついているような……
「何でだよ? あんたは、失ってもいいの?」
「失う? 俺にはこれ以上、失うものなど何もない」
 凪の答えに、胸倉を掴んでいた腕から力が抜ける。
 項垂れた顔を上げることもできず、オルビスはこみ上げるものを必死で堪えた。
 見ていれば分かる。
 凪の矛盾に。
 突き放す反面、冴の心を縛り付ける。自由を与えず、強い独占欲を見せる凪。
 なんとも思っていないなら放っておけばいいのに、それすらもできず、絶えず傍らに置くその理由も。
 それを許す真意も。
 何もかもが、矛盾しているように見える。だからこそ、彼の言葉が許せなかった。
「なに、それ……なんだよそれ。冴は『物』じゃないんだぞ!?」
 代えのきく道具ではない。一つしかない、失ったらそれまでの存在だ。
 しかし凪は、そんなオルビスに嘲笑を贈った。その見下したような笑みに、オルビスは何かに気づいたようにグッと言葉を飲み込む。
 凪を襲った後、ディオールに言い放ったのは、紛れもなくこの少年。
 人形は『物』だと。
 自分の物をどうしようと、自分の勝手だと。
 例えそれが彼の本心ではなくとも、言葉にしてしまった以上、それを他人に本心と取られても仕方がない。
 あの場に居なかったはずの凪が、それを含んだ笑みを浮かべるということは、色々と話が伝わっているらしい。
「……っ」
「まぁいい。そんなに望みとあらば壊してやろう。この意味のない時間を」
 怯んだオルビスを横目に、凪はシーツを払いのけた。しっかりと地に足を着け、立ち上がるその姿はどこか艶めいていて、目を奪われる。
 冷ややかに浮かべる笑みが、美しい。
「もうすぐ時が満ちる。そうすれば、全てが終わる」
 青年はただ、待っている。その時を。
 静かに告げて、凪はゆっくりと少年に背を向ける。
「そ……」
 オルビスは何かを言おうとして、結局言葉が出なかった。
 部屋から出て行く凪がどこに向かうのか、解っているのに。引き止められなかった。
「時が、満ちる……?」
 青年が言い残した言葉を拾い、オルビスは絶望を隠すように、両手で顔を覆った。



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