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 静まり返った廊下に、二つの人影。
 立ち尽くす青年と、しゃがみ込んでいる少女の姿。
 目の前に差し出された掌が、ゆっくりと力なくしな垂れる。お互い、言葉が見つからない。
 不自然な静謐の中、動くことも叶わない。
 そんな凍えた空気を裂いたのは、静かな足音と、
「冴」
 少女の名を呼ぶ、聞きなれた声。
 聞き慣れたといっても、目の前にいる青年、戎夜のものではない。
 もっと馴染みのある、もっと身近な……ここにあるはずのない声。
 自分の名前を決して呼ぶことの無かった、欲しかった人の――――――
「な、ぎ……」
 振り返った先には、闇色の瞳。
 漆黒の髪に、黒尽くめの服。その合間から覗く、白い肌。
「どうして」
 彼が目の前にいるのか分からない。
 怪我をして、ベッドで横になっているはずの彼が、なんでもない顔をして立っている。
 歩いている。
 冴を見下ろしている。
「凪、傷は……」
 そして動揺する。
 また無理をしているのではと、傷口が開くのではないかと不安になる。冴は咄嗟に立ち上がった。
 そんな彼女を前に、凪はどこまでも静かに、どこまでも冷静に、傷口を覆っていた包帯を手早く解いてみせる。
「もう、ない」
 魅せられた。
 解けた包帯があった場所に、生々しい傷口はない。
 あるのは、傷跡だけ。塞がった傷跡。
「……っ」
 完治、とまではいかなくても、もう殆ど完治に近い状態。
 認識した途端、言葉にならない感情がこみ上げる。溢れそうになる。
 あれだけの重傷を負って、あれだけ苦しんで、ようやく、凪は痛みから解放された。
「本当に……?」
 嬉しいはずなのに、どこか寂しい。
 もう、今までのように凪の傍に居続けることを許してもらえないのかと思うと、寂しい。
 うなされている凪の手を握って、寝顔を見守ることも。
 真剣に書物を読む横顔を眺めることも。
 穏やかでゆっくりと流れていく時間が終わることが、何だかとても寂しかった。
 矛盾したその感情に、冴は胸元の服を握り締める。皺になってしまうことも厭わずに、硬く。
 自分の気持ちに気づいても、もう遅い。
 先ほど冴は、凪に拒絶されたのだから。
 許されない時間。終わってしまった時間。取り戻せない。
 夢のような時間が、終わりを告げる。
 今までのように、遠くから眺めることしか許されない生活へ戻る。
 そう、元の生活に戻るだけ。
「冴」
 俯いてしまった少女の心情を察したのかそうでないのか、凪は否定するような声音で名を呼ぶ。
 静かなトーンは、しばらく廊下を反響した。
 まるでエコーがかかったみたいに、頭の中を支配する。
 冴は恐る恐る顔を上げた。
「来い」
 視界に飛び込んだのは、差し伸べられた手。
 自分の方へ向けられた、掌。
 冴は限界まで目を見開く。掌と、凪を交互に見比べる。
 何度も、何度も。
 いつもなら早くしろと苛立ちを見せる凪は、反応を返せず躊躇している冴を見ても、ただ静かに手を差し伸べながら待っている。
 彼女が選ぶのを。
 ただ黙って。
 その、いつもと変わらぬ無表情。あまりにいつもと同じすぎて、解らなくなる。
 これが現実なのかどうか。あるいは都合のいい夢なのではないのかと。
 冴は硬く掌を握り締める。そこが熱く痺れる。
 痛い……
 その痛みが、夢ではないと告げる。囁く。
 自分の中の何かが、静かに、けれど縛るように告げるのだ。
 その手を取れ、と。
 差し出された手を、取りなさいと。
 固まった腕に、力を込める。意識しないと、動かない自分の手。
 緊張と動揺と不安で縛り付けられた身体は、冴の意志に反抗する。重たい腕が、掌が、凪の掌まで届くのに相当時間を要した。
 ゆっくりと手を伸ばす。
 その手を待っていた掌に、そっと、触れたその刹那。
「!?」
 視界が揺らいで、身体のバランスが崩れて、何が起こったのかわからなくなる。
 間近に迫った黒と、その合間から覗く白い肌。
 解かれた包帯のあった場所。傷跡が、目の前にある。
「凪……」
 それでようやく、冴は自分が抱きしめられたことを理解した。
 凪の鼓動が、心地良い。
 一定のリズムを刻む心音。この音を、ずっと聞いていたいと思うくらいに。
「お前は俺の物だ。それを、忘れるな」
 紡がれた旋律が、腕の中に居る少女の全身へ刻み付けるように強く、否定を許さない。
 そう、冴は凪の『物』
 凪の、人形。所有物。
「私は、凪の物……」
 小さく零した言葉に、凪が肯定する。
 立ち尽くす戎夜を睨みつけるように、見せ付けるように、冴を抱く腕に力を込めながら。
 手を出すなと、牽制されたかのような態度と言葉に、戎夜の表情は冷えていく。
 もともと冷酷そうな容姿の持ち主ではあるが、中身は全くそれに伴わず、温厚な性格だ。そんな彼が、ここへ来て始めて自分の意志で他人に敵意を表した。
 向けられた敵意を受け止め、そしてそれを返したのだ。
 まるでドール化したときのように、一切の表情が消える。その、冷たい瞳の色。
「私は、凪の傍にいてもいいの?」
 自分を挟んでそんな冷戦が繰り広げられていることなど気づかずに、冴は言葉を続けるように問いかける。
 拒まれても尚、自分が凪の傍に居ることを許されるのかと。
 凪はその問いに静かに少女の髪を梳いた。耳元で囁く。
「居てもらわなくては困る」
 視線は戎夜に向けたままで、その冷たい瞳をさらに挑発するように、凪は小さく笑みを浮かべた。勝ち誇ったような、見下すような、冷笑。
 冴が頬を赤く染めるのと、戎夜が眉を顰めたのは同時だった。
 予想通りな二人の反応を前に、凪はただ冷たい笑みだけを浮かべる。見透かしたような、濡れた闇色の瞳。
 その深い闇色の瞳で、凪は揺らぐことなく全ての者を欺くことを、選んだ。

 もう、戻れない。



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