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 少女は諦めたような笑みを浮かべ、囁くような小さな声で呟いた。

「翼があれば、どこへだって行けるのに」




 逸る思いを抑えるも、歩く速度は次第に速くなっていく。
 最後は殆ど小走りで市場まで向かっていた。
 冴は目の前に見えたその場所を確認して、肩の力を抜く。一息ついてから、市場での物色を開始する。
 やはり、鮮度の良いものはない。
 どれも日持ちのする乾物ばかりだ。よくて傷んだ果物があるくらい。傷んでいるといっても、腐っているわけではなく、ただ傷がところどころ入っているだけで、その部分を除けば問題はなさそうだった。
 冴はいくらかりんごを購入し、他にも色々と調達しておこうと店を転々とする。
 あまりに夢中になりすぎて、彼女は気づいていなかった。忍び寄ろうとしている間の手に。
「貴族のお嬢さんが、こんな所に一人で来たのかい」
「え?」
 購入した品物を受け取る際、店の老婆がしわがれた声で問うてきた内容を、冴は瞬時に理解できなかった。
 ぽかんと呆け、それから首を傾げる。
 冴は貴族ではないし、自分の今の格好がこの場にどれほど似つかわしくないかの認識も薄かった。
 彼女には、凪に助けられる前の自分の姿しか頭にないのだ。
「そんな物のいい服なんざ、どれくらいぶりに見たかね。綺麗なお嬢さん、悪いことは言わんから襲われる前に帰りな」
 老婆の言葉で、冴はようやく今の自分の立場を理解した。
 今の自分は、かつての姿ではなく、美しい少女の姿をしているのだ。着ている服も、シンプルではあるが絹を使った高級なものだ。
 気づいて辺りを振り返ると、そこにいる誰もが冴を遠目に見ているのに気づく。
 それは決して好意的なものではなく、獲物を狩るような残虐さを含んだものだった。
 冴は慌てて踵を返す。
 前に来た時は、ディオールがいた。そして彼とはぐれた瞬間に襲われたのを思い出す。
 嫌な記憶がよみがえり、冴は血の気が引くのを感じていた。買ったものを大事に抱え、市場を出る。
 このまままっすぐ帰れば、なんの問題もなく凪の待つ屋敷につく。そう、このまま何も起こらなければ。
「そんなに慌ててどこ行くの?」
「……っ!?」
 市場を出て少ししたところで、待ち伏せていたかのようなタイミングで男が数人、冴の行く手を阻んだ。
 冴は思わずビクリと肩を震わせ、固まる。
「この間はどうも。まさかまた会えるなんてなぁ」
 数人いた中から、一人の男が一歩前に出る。
 どこか見覚えのある、顔。腕をさすりながら下卑た笑いを浮かべるその男は、以前冴たちを襲おうとしてディオールに腕を折られた者だった。
 それに気づいて、冴は唾を飲み込む。
 無意識に体が震える。決して冴にとっていい状況ではない雰囲気が流れる。
「あんたの連れのおかげで、俺の片腕は使い物にならなくなった。だからさ、責任とってくれない?」
 笑みが、豹変する。
 それは、恨みを含んだ形相。
「ぁ……ぃ、や」
 あまりの恐怖に、冴は一歩後退する。けれど、男はそれよりも早く冴との距離を詰め、腕をつかんだ。
「いっ……!」
 痛い、と言おうとして、声が出なかった。
「折角会えたんだ。この間の御礼をしなきゃなぁ」
 厭らしい笑みを浮かべながら、男は冴の耳元で囁く。その間に他の男達に完全に囲まれて、冴は身を縮めた。頭の中で鳴り響く警鐘。
「そんなに怖がるなよ。なぁに、殺しゃしない」
 汚らしい笑みとしゃがれた声。その声に抵抗しようと腕に力を込めた瞬間―――――冴はみぞおちを打たれていた。遠のく意識。目の前の光景が揺れる。冴は抗うように唇を噛み締めるが、痛みに耐え切れず地に倒れた。
 男達は気絶した少女を抱え、ニタリと笑みを浮かべてその場を離れた。




「!?」
 駆ける足が、ピタリと止まる。
 冴の意識が、途絶えた。
 それの指す意味を考え、そして考えるんじゃなかったと舌打ちする。
 考えれば考えるほど藪蛇だ。
 頭に血が上る自分がいるのがわかる。相当怒りを覚えているのだと自覚した瞬間、だがなぜそこまで怒っているのか分からずさらに機嫌が悪くなる。
「くそっ」
 しかしとにもかくにも、前に進むべきだ。凪は再び地を蹴った。先ほどよりも早く。前へ。
 意識が途切れても、気配はある。
 切れ切れではあるが、それを頼りに伝っていくしかない。
 しばらく走り、目の前に市場への入口が見えたその時だった。
「なっ……!」
 風が、吹き乱れた。
 土埃をたて、凪に襲いかかる。砂をかぶって、彼は思いっきり怯んだ。
 小さく咳き込みながら、衣服にまとわりついた砂を払い落す。舌打ちしながら前に進もうとした矢先、冴の気配が一瞬増した。
「冴……?」
 凪はハッと顔を上げる。辺りを見渡し、市場に隣接した町並みに視線が止まった。町と言っても、大体が布を張っただけの家が連なったものだが、以前あった建物が屋根代わりになり、砂と雨は防げる。
 その町並みの中に、ポツンポツンと建つ小屋がある。木でできたその小屋の殆どは腐り、崩れかけているが、使えないことはない。
 腐食が酷くカビが生えているために人は住んでいないが、物置代わりに誰かが使っているのだろう。
「あれ、か」
 その中の一つに、凪は迷いなく近づいていく。
 確かに冴を感じた。声が聞こえた気がしたのだ。
 自分を呼ぶ声が。
 凪は静かに、その戸に手をかけた。



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