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 短くはない道のりを、二人で歩いた。
 会話はない。黙々と先を行く凪の後ろ姿を見ながら、冴はどこか満たされたような温かい気持ちを感じていた。
 黙って出て行ったことは、さっき何度も謝った。凪は「もういい」の一言で終わらせたが、当分は冴の中で罪悪感は残るだろう。
 それでも、それよりも今は幸せだと思えた。
 だって、凪が助けてくれたから。あんな目にあうとも思っていなかったけれど、危険にあった冴を、凪はまた助けてくれた。
 追いかけてきてくれた。今まで関心など微塵も感じさせなかった彼が、いつだって冷静だった彼が、取り乱していたのだ。
 胸の奥がジンっと熱くなる。
 これ以上の幸せは、きっとない。人間であった時には想像もつかなかった感情を、大事に抱きしめる。
 失いたくない。手放したくない。

―――――離れたくない……

「……どうした」
 先を行く凪が、突然に振り返った。どうして、と思い、凪の視線をたどる。
 彼の視線は、冴の手元を見ていた。凪の服の裾をつかんでいる、冴の手を。
「えっ、あ、あれ? 私……」
 無意識に掴んでいた裾を、咄嗟に放す。自分のその行動に焦った。なぜ、いつの間に掴んでいたのか。
 動揺しまくっている少女に、凪は呆れたような、けれどどこかおかしなものでも見るような表情を浮かべ、小さく吐息した。
「手を貸せ」
「え?」
 手を差し出され、冴は更に動揺する。
 差しのべられた掌と、凪の顔を見比べる。
「また、勝手にどこかへ行かれては困る」
 躊躇する少女の手を半ば強引に掴み、凪は再び踵を返して歩き出した。
 不意に繋がれた手と手。
 温かい。
 これが、生きている人の掌。
 これが、人と人との間に生まれる温もり。
 溢れそうになる。
 きっと、これ以上はない。
 こんなにも幸せだと思ったことなんてない。
 今まで与えられたのは、独りよがりな愛情だった。押しつけられた、拒絶を許さない、愛。
 だからずっと、誰かを思う気持ちは、感情は、苦しいだけのものだと思っていた。あんなにも無理をして、自分を殺して、相手にこたえなければいけないものだと、それが当り前なのだと思っていた。
 それがこんなにも、優しいものだったなんて知らなかった。
 確かに苦しい時もあるけれど、母の時とは違う。嬉しくて、幸せで、こんなにも温かい。
 例え凪が冴のことをそういう風に見ていなくても、それでも冴には、凪の優しさが何よりも嬉しかった。それだけで、全てが満たされる。
「……凪」
「何だ」
 呼びかければ答えが返ってくる。以前とは違う。
 煩わしいと一蹴するのではなく、話しを聞いてくれる。
 だから、心が決まる。思いが溢れる。
 伝えたいと。
「私、ずっと凪の傍にいる。どこへも行かない。ずっと、傍にいて貴方を守るから」
 その思いを口にすることが、どれ程大変なことか、きっと凪には解らないだろう。たったこれだけのことを、と聞いた人は思うかもしれない。でも、冴にとっては、これはとても難しいことだったのだ。
 自分の思いを伝えることが、今まで殆どなかったから。
「……」
 まっすぐに向けられた瞳の奥を、覗き込むように凪は見つめ返した。
 ずっと傍にいる。
 その言葉が、胸に刺さった。
 一瞬、瞳の奥が揺れる。
「お前は……」
 出かけた言葉を、しかし呑み込んだ。
 冴は、凪を望んだ。
 けれど、凪が望んだのは『冴』ではない。
 それなのに、何故こんなにも胸が軋むのだろうか。冴の一言一句に動揺して、こんなにも後悔しそうになるのは、目の前にいる少女が、あまりにも真っ直ぐだからだろうか。
「凪?」
 何かを言いかけて黙りこんだ凪の顔を、少女が覗き込む。
 心配そうな表情を浮かべて、疑うことを知らないような無垢な瞳で。
「お前は、それでいいのか」
 何を今更、と凪は自嘲する。自分が強制しておいて、確認するなどおこがましい。答えは決まっている。凪の傍にいる選択しか与えなかったのだから。
 それを、本当にそれでいいのかと確認するのは卑怯だ。
 手放す気もないくせに。ましてや、ずっと傍にいられないことを知っているのに。
 自分の手で下すくせに。
「私には、凪の傍にいること以上の幸せは、ないもの」
 凪がいればいい。それで凪が幸せなら、もっといい。
 他に何が必要なのだろう。
 そんなことを確認されることこそ不本意。それでいいのではなく、それがいいいのだから。凪の傍にいることが、冴の幸せなのだから。
「だから、何があっても私は貴方と共に在るから」
 そう言って笑った冴の笑顔は、今までで一番、輝いていた。



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