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 小鳥は飛べない。
 翼を、折られてしまったから……


 それでも青年は、何か言いたそうだった。
 そんな彼の手を振りほどいて、部屋を出た。
 冴は意外に落ち着いている自分を心の中で褒めた。思った以上に取り乱さなかったから。
 それはやはり、実感がないからなのだろうか。
 凪の手で終わりを迎える自分を、想像できないからなのだろうか。
 だって、先ほどまで手をつないで、笑って、幸せな時間を共有していた。凪の態度は今までとは明らかに違っていた。
 そんな矢先に、戎夜の凶報。
 覆せない証拠と共に、突き付けられた未来。
 どこまでが本当でどこまでが嘘なのか。それとも全て嘘か、或いは全てが真実なのか。
 何を信じ、何を疑えばいいのか。
 冴のキャパはとうに限界を超えている。
 だが、例えば戎夜が言ったことが本当で、最悪の結末を迎えることになっても、彼女が言った決意は変わらないし、嘘でもない。
 そうなった時、最終的には全てを受け入れるのだろう。
「凪? いる?」
 冴は無意識に凪の部屋の前まで来ていた。堪らずその扉をノックし、けれど返事が返ってこないことに焦る自分がいる。
 何度叩いても、呼んでも、中からの返答はなかった。
 普段ならそこで諦めるのに、何故だか今日はそれができなかった。ドアノブに手を懸け、それを引く。すると、扉は開いた。鍵は掛かっていない。
 唾を飲み込んで、冴は中に入った。何度も入ったことのある凪の部屋。
 大きなベッドを中心に配置された家具のレイアウト。
 窓際に設置されたソファとテーブル。そのソファに、凪がいた。読んでいた書物を胸の上に置いたまま、寝息を立てている。
 今日の一件で疲れたのだろう。それはそうだ、滅多に外に出ることもなければ、部屋からも出ない。完全なインドア派である凪が、全力疾走して冴を追いかけたのだから、疲れるに決まっている。
 それならベッドで寝ればいいものを、と、冴は毛布をそっと凪の身体にかけた。そのちょっとの振動で、凪がうっすらとぼやけ眼に目を覚ます。
「ごめんなさい、起こしてしま―――――」

「更」

 一瞬何を言われたのか分からなかった。自分の名ではない、誰かの名前。それが名前だと思ったのは、先ほどの戎夜の件があったからかもしれない。
 咄嗟に身を引こうとした冴の腕を、凪が掴む。覚醒しきっていないその表情がほほ笑む。
「そこにいたのか、更。こっちへ……」
 腕を引っ張られ、抱きしめられた。
 相手は完全に寝ぼけている。
 だからこそ、衝撃的だった。
 誰と間違われた?
 間違われた相手には、凪はこんな風に微笑むのか。
 戎夜が示したスケッチブックを裏付けるようなタイミングで、これか。凪の腕の中で、冴は唇をかみしめる。
 凪が冴に微笑んだことなどない。こんな風に、全てをさらけ出したような笑顔なんか見るどころか想像もできなかった。
 悔しい……
 突き付けられた。
 それは決定的だった。

『あの男はお前のことなど何とも思っていない』

 戎夜に言われた言葉が胸に刺さる。それが事実だったから。
 だって、少しは近づけたと思っていた。
 少しは自分のことを受け入れてくれたのだと思っていた。
 だから、あんな風に探しに来てくれて、照れたように膨れて、手をつないで、優しい言葉をくれて……
「違うの……? 最初から、全部、嘘だったの?」
 こぼれた言葉が、嗚咽に交る。
 それは、どこかで理解していたことだったのかもしれない。
 ドールとなったあの日から。
 こうなることを、どこかで解っていたのかもしれない。
 ただそれを、受け入れたくなくて、受け入れられなくて、思いが募れば募るほど、心の奥底に封じ込めることしかできなかった。
 どんなに要素がそろっていても、証拠がそろっていても、それでも冴は凪を信じたかったのだ。信じていたかった。
 誰に何を言われたって、凪にどんなことをされたって、冴は大切な人を信じていた。
 凪を信じた。
 それを、こんな形で断ち切られるとは思っていなかった。
 冴は再び寝息を立て始めた凪の顔を覗き込む。
「それでも私は……」
 言葉は続かない。
 想いを口にできない。
 涙が頬を伝って、凪の頬に落ちる。目の前が涙でぐしょぐしょになってよく見えない。
 嗚咽だけが漏れる。
 凪は眠ったまま。
 冴は彼の腕を抜け、その場に静かに蹲った。
 涙が止まらない。震えが止まらない。
「ふっ……うぅ……」
 静謐な部屋に染まる嗚咽だけが、ゆっくりと時を動かしていた。



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