Z





昔、誰かが言った。

『人は所詮、人を裏切るものだよ』

 と。
 誰に言われたのかは、はっきりと思い出せない。
 その時少女は、どうしてそんなことを言うのだろうと、哀しい思いをしたことだけ、はっきりと覚えている。
 とても哀しくて、胸が締め付けられた。
 だから少女は、訊かなければよかったことを、確かめなければよかったことを、聞いてしまったのだろうか。

『―――も、誰かを裏切るの?』

 少女の問いに、その人は僅かに目を見張る。
 そして静かに、瞳を伏せた。

『すまない』

 肯定とも否定ともとれる答えと共に、その人は少女を強く抱きしめた。
 しかし少女は、それが肯定なのだと理解する。
 どうして……
 震える背中に腕をまわし、少女は静かに目を閉じた。
 どうして……
『すまない。私のせいで、お前にこんな思いをさせて』
 追い詰めているのが、自分であることがわかった。
 この人を傷つけた。
 少女はそこでやっと、訊いてはいけなかったのだと理解した―――――




「……ごめんなさい」
 夢現に、少女はかすれた声で零す。
 ぼんやりとした思考の中で、覚醒した意識。今まで見ていた光景を、夢だと認識した途端、その内容が靄のようにかき消えていく。
 何だっただろう。何か、酷く懐かしい夢を見たような気がする。
「冴?」
 ぼやけた意識の中、誰かが彼女の名前を呼んだ。少女は、ゆっくりと瞼を上げる。
「目が覚めたのか?」
「……凪?」
 瞳に映ったのは、紛れもない自分のドーマ。凪の姿だ。
 どこか心配するような、窺うような表情が浮かんでいる。
「どうして?」
「それはこちらが聞きたい。目が覚めたらソファの下に蹲っているお前がいた」
 上体を起こすと、そこが凪のベッドの中だと知れた。その瞬間、急に記憶が戻り始める。
 昨夜、あのまま泣き疲れて眠ってしまったらしい。
「ごめんなさい、私……っ」
「いい。もう少し眠っていろ」
 慌ててベッドから出ようとした冴の身体を捕まえ、そのままベッドに押し倒す。間近に凪の顔があって、冴はドキリと目を丸めた。
「目が腫れている。そんな顔で歩き回るな」
 言われ、冴は咄嗟に顔を掌で覆った。ドールの治癒能力を持ってしても、治りきらなかった腫れ。一晩中、眠っている間も泣き続けていたのだろう。
 確かに瞼が重たい。というか、視界が狭い。
「何をされた」
「え?」
 項垂れて顔を隠す冴を横目に、凪はどこか面白くなさそうな表情を浮かべていた。何を訊かれたのか解らずに顔をあげると、闇色の瞳とかち合い、一瞬ひるむ。
「あの男に、何かされたか言われたか、したのだろう?」
「あの男……?」
 誰のことかピンと来ずに、冴は小首を傾げた。凪はその態度に苛立ちを覚え、乱暴に答える。
「西のドールだ」
「戎夜さん?」
「お前から僅かにだが、あの男の気配がする。何をされた」
 そこでやっと納得する。
 どうやら凪は、冴が泣いている原因が戎夜にあるのだと勘違いしているらしい。それで、こんなにも不機嫌なのか。
 確かに戎夜に原因がないわけではないが、それはあくまできっかけに過ぎず、冴がここまで泣き腫らしていた理由の殆どは、目の前にいる青年にある。
 当の本人はまるで自覚がないのか、戎夜に対して怒りをぶつけている始末だが。
「違うの、凪。戎夜さんは関係なくて……」
「では、何が理由だ」
「それは……」
 言えるわけがない。
 訊けるわけがない。
 どうやって、自分を殺そうとしている相手に、それを確かめられるというのか。そこまでの覚悟なんて、持っていない。
 自分で終止符をうつ覚悟なんて……
 本当は、今この瞬間でさえ怖いのだ。
 いつ、どこで、自分は断ち切られるのだろうか。それは一時間後かもしれないし、一年後かもしれないし、あるいはもっと先なのかもしれない。
 そんな細い糸の上を歩かされているような毎日を、これからは過ごしていかなければいけないのに。
「冴?」

――――――ああ……

 俯いた少女の顔を伺うように、凪が覗きこむ。
 頬に触れた手のひらが、温かい。

 どうして……

 切り捨てるのならば、こんな風に優しくしないでほしい。
 こんな風に、心配しないでほしい。
 前みたいに、無関心でいてくれた方が、よほどよかった。
 あんなに凪を望んでいたのは自分なのに、つい先日まで、今みたいな状況をずっと夢見ていたはずなのに。
 今は只、苦しいだけ。
 虚しいだけだ。笑顔も、上手く作れない。
 なんでもないって、笑って言わなければいけない状況なのに。そうやって、安心させなければいけないのに。
 笑えない。
 作り笑いは慣れているでしょう? そうやって自分に何度も言い聞かせるのに、顔がこわばって、視界がかすんで、体が震えて、頭の中がぐしゃぐしゃになるのを止められない。
「どうして……」
 どうして止まらないの。
 どうやったら止まるの。

 涙って、どうやって止めるんだっけ……

「止まらないの。止められないの……ごめんなさ……」
 苦しい。悔しい。
 凪の中に、自分は存在していなかった。彼の中に存在していたのは、『更』。
 その人だけが、凪の中に存在できるのだ。存在、しているのだ。今もずっと。
 この瞬間でさえ。
 それでも、目の前にいる青年への想いを止めることができない自分が、酷く醜いものに思えた。
 想ってはいけないのに。断ち切らねばいけないのに。
 望むなど、許されないことなのに。
 駄目なのだと思えば思うほど、欲してしまう。望んでしまう。
 止められない。

 止まらない

「凪……凪っ」
 手を伸ばせば届く距離なのに、遠い。
 目の前がかすんで、よく見えない。
 離れたくないのに、離したくないのに、離れて行ってしまう。
「ごめんなさ……ごめんなさい、ごめ、ぅあ……うぅ」
 溢れる。
 こんなにも、こんなにも愛しい。
 こんなにも、想える人がいるのに……届かない。
「一緒にいたい、ずっと、一緒に……っ」
 叶わない。
「冴?」
 涙する少女を前に、突然懇願するように訴える少女に、凪は珍しく困惑する。
 今まで、冴がこんな風に感情を表すことなどなかった。
 いつもどこか、一歩下がったところで、自分のことなのにまるで他人事のように、物事を受け止めて消化しているような、冷めているというよりは、望むことを諦めてしまっているような物腰だった。
 だからなのだろうか。
 全身全霊で訴える少女を、何も考えずに抱きしめてしまったのは。
「もういい。もう何も言うな」
 疼く。
 傷口が。塞がれたはずの胸の傷が、じくじくと傷んだ。
 まさか、と厭な汗が滲むのが分かる。
 まさか、気付いているのか。全てを、知っているのか。
 知ってしまったのか……
 だからといって、今更もう遅いのに。
 それなのに、この痛みはなんだ。まさか、今になって後悔していると?
 凪は奥歯をかみしめた。ありえない。
 これほどまでに踏みにじっておいて、今更罪悪感など、遅すぎるにも程がある。そんな権利すら、もはや凪にはない。
 情けをかけるなら、初めからしなければよかったのだ。そんな覚悟もない中途半端な想いで、振り回していいものではないのだから。
 だから、冴が全てを知ってしまったとしても、回り始めた歯車は止まらない。
 止められない。
 加速し、悲鳴をあげて、回り続ける。
 壊れる、その時まで。

 悲鳴を、あげて……



BACK   TOP   NEXT