我にかえった時には、すでに日も暮れ、彼らの姿もなかった。
 俺はふらりと公園の中に入る。しゃがみ、ベンチに触れた。この場所で、彼女はいつも気持ちよさそうに眠っていた。

「揺生(ユイ)……」

 俺は彼女の名を呼んだ。これが、彼女の名前。
 揺生。

「呼んだ?」

 呟いただけの言葉に、返事が返ってきた。俺はその懐かしい声に即座に振り返る。
 そこに、彼女が気まずそうな表情を浮かべて立ち尽くしていた。俺は言葉を失う。
 彼女に会うのが、酷く懐かしいと感じた。

「なん、で……」

 やっとのことで呟く。

「なんでって、君が呼んだんだよ? 人を呼んでおいて、何ではないでしょうに」

 ぷくっと、頬を膨らませ、怒った表情を浮かべると顔を背けた。けれど、すぐにフッと表情を崩す。

「なんてね。ホントは私が勝手にでてきたんだけど。ばれちゃったから」
「ばれた?」
「うん。私の名前、正体も、全部」

 正体……?
 首を傾げた俺を見て、揺生は淋しそうな笑みを浮かべる。

「言ったでしょ?」
「は?」
「幽霊はいるんだって」


―――――誰かが信じることによってのみ存在できる存在。だから、私は信じてるの


 彼女の言葉を思い出して、俺は唾を飲み込む。グッと拳を握った。

「う、そだ……嘘だろ? 幽霊なんているわけっ―――――!?」

 彼女の腕を掴もうとした俺の手は、虚しく虚空を掴んだだけだった。揺生はそこにいる。ちゃんと立っている。
 届かなかったわけでも、避けられたわけでもない。

「な……っ」

 触れなかったのだ、彼女に。
 何度試しても、彼女の身体を貫いてしまう。
 まるでホログラムのように、幻のように、そこに実体はないかのように。

「なんで」

 前は触れた。確かに触れた。
 温もりだってあったのに……

「今は、もう触れないよ」
「なんでっ」
「あの時は、身体があったから」
「身体?」
「揺鈴。あの子の身体を借りたの。少しの間だけ、乗っ取った」

 乗っ取る? とり憑いたってことなのか?

「じゃぁ、いつも忽然と消えていたのは……」
「うん。やっぱり、仮の器だと長時間維持するのは大変なの」

 本当に、消えていたのだ。瞬時に。
 俺は妙に納得した。

「でも、なんで、そんなこと……」

 俺はゴクリと喉を鳴らした。なぜそんな大変な思いをして、そこまでする? 死んでなお。

「なんで? 変なこと聞くのね。理由は、君が一番よく解ってるんじゃないの?」
「え?」
「私がどうやって死んだか、知ってるでしょ?」

 問われ、俺は思わず彼女から目をそむけた。
 自殺……

「あの日、眠ってた私を起こしたのは君でしょ?」

 身体が震えた。
 彼女が何をいいたいのか、悟ってしまったから。思い出してしまったから。
 俺は……

「君は、止めて欲しかったんでしょう?」

 あの日……

「あの日、君は死ぬつもりでここまできた。ポケットに入ったカッターナイフを意識しながら、掌に汗を浮かべながら、恐怖と孤独にかられながら」

 俺は、そうだ。あの日、死のうと思ってここまできた。場所なんてどこでも良かった。なるべく人気の少ない所なら、そう、どこだって。
 けれど、ここには揺生がいた。ベンチに横になり、眠っていた。
 放っておけばいいのに、別の場所へ移ればよかったのに、俺はなぜか見透かされたような気がして、その場から動くことができなくなっていた。
 彼女が、揺生が止めてくれたような気がしたんだ。
 だから待った。彼女の目が覚めるのを。ずっと、ずっと傍で。無意識に……いや、本当は気づいていたのかもしれない。それを受け入れたくなかっただけで。

「私はここで死んだ。そのままここで眠りにつくはずだった。ううん、眠りについたと思っていた。けど、私の意識は未だここにあり続けてた。私は、まだこの世に未練があるのかと思ってたけど、たぶん、そうじゃなかったんだと思う」
「え?」
「君に出会ったから。君を見つけたから。死なせたくなかったから」

 そういって、揺生は目を伏せた。

「きっと、気持ちが同調したんだと思う。君が、本当は誰か自分を止めてくれ、って強く願っていた想いが、あたしを眠りから覚まさせたんだと思う。私は……私もそうだったから」

 顔を上げ、俺を見つめるその瞳には、涙が溢れていた。それなのに、無理やりに笑おうとする。

「私も、誰かに止めて欲しかったから。私は、死んじゃったけど、君は、君には、同じ思いをさせたくなかった。 だって、生きられるんだから。まだ、生きてるんだから、って。最初は、その思いだけだった。でも、あなたを知れば知るほど、別の感情の方が強くなって……好きだから、生きていてほしいと思うようになったの。生きている限り生きていて欲しかったの。これって、私のわがままかな? 勝手なエゴかな? 押し付けてる?」

 俺はかぶりをふった。

「そんなこと、ない。そんなこと、あるわけない」

 わがままなんかじゃない。エゴでもない。気持ちを押し付けてるわけでもない。
 だって俺は、救われたんだから。
 本当に、彼女は救ってくれたのだ、俺を。

「私は、もう戻れないけど……君はまだ来てはダメ。こっちにくるのは、まだまだずっと先だからね?」

 俺は頷きながら、揺生の涙をそっと拭った。実際には触れないけれど、確かに拭えた。拭ってやった。

「大丈夫。だって君は独りじゃないから。夜がきても、独りじゃないから、怖くないよね?」

 あの恐怖を忘れることはできない。でも、きっともう怖くはないだろう。

「ああ」
「ねぇ、もう拒絶しないで。あなたは人を愛せるよ。だから、生きてほしい」

 拒絶していた感情。
 誰かを想う心を、俺は封印していた。
 それを知れば、それを自覚すれば、両親の拒絶など受け入れられるはずもなかったから。

「ああ」

 答えると、揺生は嬉しそうに微笑んだ。

「……私、待っててもいい? 君が最期まで生きて、死ぬまで。私ここで眠ってるから。君が君の生を終えたら、迎えに来てくれる?」

 俺はそれに頷く。
 もし、永遠というものがあるならば……
 俺はそれに賭けてみたい。
 この気持ちは、きっと永遠。彼女を想う、この感情は。
 今まで知ることのなかったこの感情こそが、愛なのだと、やっと知り、名をつけることができた気がした。
 これが、俺のことを好きだと言ってくれた彼女への応え。

「……約束だ。必ず迎えに来る」

 それは約束。
 俺達二人だけの。

「うん。それまで、私待ってるね」

 揺生は溢れる涙を拭いながら、笑った。
 身体が透けていく。まるで、空気と溶け合うみたいに。
 消える間際。
 俺は彼女の額にキスを落とした。触れることはできないはずなのに、温もりを感じた気がした。
 揺生は恥ずかしそうに顔を赤らめ、小さく手を振る。
 別れの言葉はない。そんなものは必要ない。今は少しだけ、少しの間だけ、離れてしまうだけだ。
 俺達は、きっとまた出逢うことができる。そう、信じているから。
 揺生の姿はもう殆ど見えない。それでも俺は、最期まで彼女の姿を脳裏に焼き付けた。
 そして……
 彼女は消えた。
 俺の前から……この世界から。
 俺はふと、空を仰ぐ。
 日は落ちて、辺りは薄暗い。けれど、もう、怖くない。
 だって俺は、独りではないから。
 生かされた。生きていて欲しいといってくれた人がいた。それ以上に、望むものなどない。
 俺はこの日初めて、神の存在を感じた気がした。
 忘れない。決して。
 彼女との約束のために、俺は生きよう―――――





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