3.叶わぬ恋とは知りながら



 忘れられない記憶がある。ずっとずっと胸の奥にしまってきたもの。
 ほんの些細な出逢いと笑顔に、俺はその日、恋をしたんだ――――――


 まだホンのガキの頃。
 俺はいつものように近所の河原に遊びに行ったんだ。
 だけど、いつもは俺の独り占め、貸しきり状態のそこから、微かに泣き声が聞こえてきて、俺は思わず固まった。すすり泣くような声を、俺は確かめるように近づいていく。
 当時の俺のわき腹くらいまで伸びきった雑草を掻き分けながら、少しずつ進む。しばらくそれを続けると、次第に視界が開けてきて、その時目前に広がった光景を、俺は今でも忘れられない。
 雑草の向こう側には、円形状の広場がある。その中央に、蹲っているそれがあった。小さな背を震わせながら、膝に顔を埋めている、少女。
 俺は一瞬躊躇ってから、控えめに彼女の背を叩く。弾かれたように顔を上げた少女は、その頃の俺と同じくらいの歳で、顔をくしゃくしゃにしながら、俺を見ていた。
 泣いているのに。酷い顔なのに。それでも俺は、その時その少女にドキリとしてしまった。
 泣いているその顔が俺にはとても愛しいものに見えて、でもその反面、泣いて欲しくないとも思った。それが一目惚れだったことに気づいたのは、つい最近だ。

『何で泣いてるの?』

 俺の姿を認めた途端、涙を服の袖で荒く拭いながら、少女は気持ちを切り替えるように頭を振る。

『ショコラがいなくなっちゃったの……』
『ショコラ?』

 相当泣いていたのだろう。声は詰まったようにくぐもっていて、掠れている。けれど、決して不快な声音ではなかった。
 俺はオウム返しに尋ね、首を傾げてみせる。

『ナノカのお友達。あそんでたら、どっかに走って行っちゃったの』
『友達がいなくなって、寂しくて泣いてたの?』

 確かめるように尋ねると、少女はコクンと頷く。俺は努めて優しく、笑顔を浮かべて言葉を続けた。

『じゃぁ、そのお友達が帰ってくるまで、ボクがいっしょにいてあげる』
『ホント……?』

 少女の隣に腰をおろした俺を驚いたように見つめながら、その子は縋るような眼を向けてくる。それに力強く頷いて見せると、少女はふわりと柔らかい笑みを浮かべた。
 暖かくて、優しくて、純粋な笑み。その笑顔を、俺は今でも忘れられない。
 その後二人で待っている間に交わした会話は、とりとめもないようなことばかりだった。食べ物は何が好きか、とか、小学校の友達がどうのとか、およそどうでもいいようなことを延々と話した。
 けれど、時間はあっという間に流れ、別れも唐突だった。
 日が暮れかけて、少女の待っていた『友達』が迎えにきたのだ。突然駆けてきたそれは、少女に激突せんばかりの勢いで近づいてくると、嬉しそうに尻尾を振って彼女の顔を舐めた。少女が言う『友達』とは、どうやら犬のことだったらしい。
 その『友達』を連れて、去っていく後ろ姿を見つめながら、どこか寂しくて、胸が疼くような痛みを覚えたのを、今でも覚えている。  自己紹介もまともにせずに、次に遊ぶ約束もしてなかった。ただ一つ解るのは、彼女の名前が『なのか』ということだけ。
 ホンの数時間程度の出逢いで、他愛もない会話だけを残して、それ以来この場所で彼女に会うことはなかった。
 だけど俺は、自分でも気づかないうちに彼女を好きになっていたのだ。会えないと解ってから。あの笑みに触れた瞬間から。
 もう二度と会うことはないのだろうと知りながら、叶わない恋だと解っていながら、それでも俺は、あの笑顔に恋をした……――――――




「あ、君島くん発見―! こんな所にいたぁ」
 パタパタという効果音が相応しい足音を鳴らしながら、後ろから近づいてくる存在に、俺はゆっくりと上体を起こす。
「探したんだよぉ。さっきの数学、サボったでしょー?」
 屋上の床に寝そべり、昼寝を嗜んでいた俺は、そのサボり発言に言い返すことができずに、ぐっと言葉を飲み込んだ。あまりにも天気が良くて、あまりにも授業がつまらなくて、俺の気分も乗らなくて。こんな要素がそろってサボらないわけにはいかない。
「だからね。ノートとっておいてあげましたー! 誉めて誉めて!」
「うおー、マジで!? サンキュー、篠沢! 天才!」
 だが篠沢は、サボっていたことを怒るわけでもなく、俺の前に一冊のノートを差し出しただけ。それを受け取りながら、俺は感嘆の声を上げる。さすが篠沢、気が利くなぁ。
「そんなに喜んでもらえると頑張った甲斐があったよー」
「よし、んじゃなんかお礼しなきゃだな」
「え? い、いいよ! そんな……あ! じゃぁ、今日ヒマ!?」
「うん? 特に予定はないけど、何で?」
「ショコラがね、君島くんに会いたいって煩いの。あの子すっごい人見知りするのに、君島くんのことは大好きなんだよー! だからね、遊んであげて欲しいの。それがお礼ってのは、どう?」
 ダメかな? と小首を傾げながら篠沢は俺の顔を覗き込む。そんなこと、無条件で承諾するのに。
「マジでか。ショコラにそんな気があるとは知らなかったな。実は俺達両想いだったのかー!」
「えー? でもショコラ、オスだよ?」
「何!? あいつオスだったの!?」
「うん。だから男同士の友情だね」
「そうだな。仕方ねぇから、遊んでやるかな」
「ホント!?」
「おう。男に二言はない」
「ありがとー、君島くん!」
 途端、嬉しそうな満面の笑みが浮かぶ。俺はそれに、古い記憶の中にある少女のものと重ねた。
 あの頃から変わらない、柔らかい笑み。
 まさか、こんなに時間が経って再会するとは思いもしなかった。おそらく、篠沢は覚えてもいないだろう。まぁ、このズレ過ぎた性格には驚いたが、それも含めて俺は彼女に、この笑みに、再び恋をしたのだ。


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