9.キス



 近い距離。
 息遣いが伝わってくるほどの。
 どれくらい、見つめ合っていたのか分からない。
「……で? 返事は?」
 あの篠沢の反応を見ても尚、やっぱり返事を聞くのは怖かった。
 でも、聞かないのも不安になる。
 俺はとりあえず顔を離し、少しだけ距離を置く。
 篠沢はやっと硬直が解けたとでも言うように深呼吸を繰り返し、真っ赤な顔のまま僅かに顔を背けた。
「わ、私は……」
 弱々しく零しながら、俯いてしまう。困ったような顔と、その態度。
 俺は苦笑するしかなかった。
「やっぱいいや。悪かった。気持ちの整理がついたらでいいから、そしたら答えを聞かせてくれ」
 俺が中々気持ちを告げられなかったのと同じに、いきなり答えを出せと言われても出せないだろう。元々そういうのには疎いんだから、余計に。
「いいよ、ゆっくりで」
 ポンッと頭を軽くなで、俺は篠沢から離れようと手を離し――――――
「ん?」
 身を引くために後ろへ下がろうとした身体が、何かに引っ張られて引き戻される。
「……って」
「え?」
「待って」
 見ると、篠沢が俺の上着の裾を引っ張っていた。相変わらず真っ赤な顔のまま、けれど、さっきまでの困惑とか戸惑いとかではなく、どこか決意を秘めたような顔だった。
「篠沢?」
「本当は……答えなんてとっくに出てるの。気づいたの、あの時」
 掴んでいた裾を離し、篠沢はポツリポツリと話し始めた。それは搾り出すように。
「君島くんが真央ちゃんのこと好きなんだって知った時、始めは解らなかったの。何で逃げてるんだろうって。本当なら、驚くとか、逃げる以外のもっと別の反応ができるはずなのに、どうして逃げちゃったんだろうって」
 あの時篠沢は、咄嗟に状況を拒絶し、その場から去った。ごめん、と一言だけ放って。
 その反応が、篠沢らしくないといえばらしくない。
「あの時ね。丁度先輩から告白されて、頭の中ぐちゃぐちゃになってて、相談に乗ってもらおうと思って屋上に行ったの。教室にいない時はいつも屋上にいたから、君島くん」
 篠沢の言葉に、俺は思わず目を剥く。
 あの時屋上に来たのは、俺を探して?
「だからなのかな。すごくショックを受けて、何でこんなに胸が痛いんだろうって、泣いてしまいそうになったの」
「篠沢……」
「でもね。走って走って、苦しくなって、そこであぁ、そうかって気づいたの」
 言いながら、真っ直ぐに俺を見つめる篠沢。その表情は、さっきまでとは違って酷く穏やかだった。
「逃げたのは、知りたくなかったから。真央ちゃんの出す答えを聞きたくなかったから。もしそれがイエスだったらって思うと、苦しくて。辛くて……それで、解ったの。苦しいのは、胸が痛いのは、こんなにも哀しいのは、私が君島くんのことを好きだからなんだって」
「しの……」
「私、小さい頃はよく転勤を繰り返してたから、すごく親しい友達っていなかったの」
「え?」
 急に変わった話の内容に、思わず首を捻る。
「でも、そんな私にも忘れられない友達ができたの。男の子なんだけどね、その時ショコラと逸れてしまって、泣いていた私に声をかけてくれた子で。ショコラが戻ってくるまでずっと一緒にいてくれて、色んな話をしてくれた」
 俺の言葉を遮って告げた話の内容に、思わず篠沢を凝視する。
 もう、忘れているものと思っていた。
 覚えてるのは俺だけだって。
 あの時の草の匂いも、風の柔らかさも、少女の笑った笑顔も、そして俺自身が抱いた感情も、全部鮮明に覚えてる。
「すごく安心したの。優しく微笑んでくれた顔が忘れられなくて、まるで王子様みたいだった」

″白馬に乗った王子様は、茨の城で眠るお姫様を目覚めさせるためにキスを交わす

「ずっとね、気になってたの。人見知りの激しいショコラが、何で君島くんにだけは初対面でも懐いたのか。どうして、君島くんを始めてみた時、あの時の男の子と重なって見えたのか。ずっと引っかかってたけど、結局深く考えずに放って置いた。でも、今ならはっきり解るよ」

″すると魔女の呪いによって眠り続けていた姫は、見事眠りから覚めたのだ

「君島くん、なんだよね」

″それは、百年という長い年月をかけて起こった奇跡

「ありがとう。私に声をかけてくれて、傍にいてくれて。好きになってくれて、本当にありがとう」
 何か言おうとするも、言葉が詰まって出てこない。
 まさか篠沢も覚えてたなんて。あんな昔の、些細な、他人から見ればちっぽけな数時間の記憶を。
 ずっと……
「もう一度改めて言わせてね。私も、君島くんのことが好きです」


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